沖縄戦で旧日本軍の指揮官と兵士の遺族たちが交わした手紙が本にまとめられ、2024年2月に出版された。

執筆した遺骨収集ボランティアは、戦後の遺族の苦しみや悲しみが二度と繰り返されないよう願う思いを本に込めた。

356通の手紙につづられた遺族の悲しみ

「赤裸々に申し上げますなら、本当は後を追いたい心でいっぱいなのでございます。去れど、残されし三人のいとし子を思うときこれは許されない事です。」

沖縄戦に出兵した夫が二度と帰らないことを知った妻の悲痛な思い。

356通の手紙には、それぞれの遺族の悲しみがつづられていた。

この記事の画像(12枚)

20年以上、沖縄戦の戦没者の遺骨収集を続けている浜田哲二さんと律子さんはこの日、自らが執筆した本をこれまで交流してきた遺族に届けようと準備していた。

浜田哲二さん:
やっぱね、できましたよっていう感じが。まず8年もかかりました

全部世に出すなら君たちに話したい

旧日本軍の大隊長が沖縄戦で亡くなった部下の遺族と交わした手紙をまとめた1冊、『ずっと、ずっと帰りを待っていました』

本の出版のきっかけは、沖縄本島南部の丘陵地で、旧日本軍の歩兵第32連隊の認識票を発見したことをきっかけに、大隊を率いた伊東孝一さんとの交流が始まったことであった。

伊東さんは終戦からおよそ1年が経つ頃、戦死した部下600人の遺族に沖縄から持ち帰った琉球石灰岩の破片を同封し、贖罪(しょくざい)の意識をしたためた詫び状を送った。

伊東孝一さんが送った詫び状(手紙)より:
生存していることは何のお詫びの申し上げ様もない

この手紙に対し、遺族から356通の返信が届いた。

浜田哲二さん:
国のことも軍のことも私のことも悪く書いてある手紙もあると。それも含めて、良いも悪いも全部世に出すならば、君たちに託したいというお話だったんですよね

部隊の名簿を頼りに始めた遺族探し

356通の手紙からは最愛の夫、大切に育ててきた息子、やさしかった兄弟の帰りを待ち続ける人たちの思いが伝わってくる。

1946年7月 遺族が伊東さんに宛てた手紙:
元気で出征したあの姿、今もはっきり眼に浮かびます。本当に戦死したのでしょうか。夫はもう帰らないのでしょうか

公開するには、手紙を出した遺族の許可をとらなければならないと、356通を何度も読み返し、伊東さんが作成していた部隊の名簿を頼りに遺族探しが始まった。

浜田哲二さん:
探し始めたんですが、とんでもなく難航しました。ましてもう70数年前の住所しかないので、わからないんですよ

時間をかけて調査し、現地にも出向いて遺族を探し、伊東さんの思いを伝えてまわった。

手紙を見せて公開する許可をもらうとともに、手紙の原本を返還する取り組みが始まった。

西原町で戦死した田中嘉輝さんの甥:
今になってこうやって出てくるというのは何か縁というか…。ありがたいです

残された人たちがどんな思いで戦後生きたか

遺骨も遺品も戻らない中で届けられた手紙をきっかけに、遺族から語られた戦没者への思いが本には綴られている。

浜田哲二さん:
(遺骨収集ボランティアの)私達が見つけることができるのは、血が通っていない遺留品であり、また、もう亡くなられてしまったご遺骨なんですよね。だけど、その一人ひとりの方々には人生があり、家族があったわけですよね。激しい戦闘のシーンというよりも、残された人たちがどんな思いで、戦後生きたんだということを感じ取ってほしいなと思いますね

一人でも多くの人に伝えたいという思いが書籍化という形で実現した一方、これまでに返還できたのは356通のうち80通あまり。

さらに、伊藤大隊長は沖縄への贖罪の気持ちを名簿という形で残している。

浜田律子さん:
沖縄(部下)の方だけを抽出した名簿は作っておられたんですよ。だから、出したい気持ちは本当にあったんだろうなっては思いました

伊東大隊長が率いた部隊には、沖縄出身者がおよそ100人いたことがわかっている。

浜田哲二さん:
家は焼かれて、役場もみんな無いという状況で、部下の遺族がどこにいるかっていうことは、正直わかんなくなっていたとおっしゃってですね

沖縄の遺族にお詫びすることができないことを痛恨の極みと伊東さんは記している。

浜田哲二さん:
私達は、実はこの沖縄出身の方々の名簿をとっても大切に思っていて、お話もしたいし、お伝えしたいこともあるので、DNA鑑定をやらないかというふうに働きかけたいんですよね。すると、もし一致したら(遺骨が)帰る可能性はあるんですよ

浜田夫妻はこれからも手紙の返還とともに沖縄での遺骨収集を続け、一つでも多くの遺品、そして遺骨を遺族の元に帰したいと活動を続けている。

(沖縄テレビ)

沖縄テレビ
沖縄テレビ

沖縄の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。