ロシアのウクライナ侵攻から2年。
「夫を帰して」
妻たちが真っ赤なカーネーションを手に静かな抗議を始めた。
この記事の画像(11枚)ウクライナ国防省はロシア軍の死傷者を2024年2月22日現在で約40万7000人と発表。ロシア国防省はウクライナ軍の死傷者を2023年12月19日現在で約38万3000人としている。
情報戦もあり、真偽の見極めは難しいが、武力の応酬が続いているのは間違いない。ロシアは職業軍人ではない一般人を約30万人動員し、兵士不足を補っている。
独裁国家らしく、これまで反戦の声を封じてきたが、ここに来て、抑えこめない動きも出てきた。
クレムリンのモニュメントで約50人“献花” SNS使い全国に呼びかけ
2024年2月中旬。冬は曇り空が多いロシアの首都モスクワで、すっきりとした青空が広がった。
正午過ぎ、シンボルの白いスカーフを頭に巻いた女性たちが50人ほど集まった。
一様に無言だが、主催者に日本のメディアだと話しかけると、勇ましく答えた。
「民間人全般の動員を中止し、第2波、第3波の動員がないようにすること。これが私たちの思い。彼らを前線から呼び戻すことが必要です」(主催者のマリヤさん)
モスクワ中心部の観光名所「赤の広場」のすぐそば、プーチン大統領が執務するクレムリンの壁際に設けられた「無名戦士の墓」。第2次大戦で戦死した兵士のためのモニュメントで、女性たちは真っ赤なカーネーションを手にし、捧げた。
女性はロシア軍に動員されている兵士の妻や母親たち。2023年8月に「プーチ・ダモイ(家路)」というグループをSNSで立ち上げた。
ロシアの祝日「祖国英雄の日」の12月9日から、毎週土曜にロシア各地にある無名戦士の墓への献花を呼びかけている。
「娘が生後3カ月のとき夫が動員されました。娘は父親を知りません。合法的な方法で動員を解除して夫を家に連れて帰りたい」
1歳半の娘と2人で花をたむけたクリスティーナさん(20)=仮名=は切なげに訴えた。
ロシアの慣習では赤いカーネーションに「追悼」の意を込め、墓前に供える。兵士が帰還した際に無事を喜び、手渡す花でもある。
軍務経験のない夫から突然のメッセージ…「動員される」2時間後に出発
「心配しています。仕事も普通の生活もできません」。参加者のひとりで、モスクワ郊外に暮らす会社員、エレナさん(42)=仮名=が後日、自宅で取材に応じてくれた。
エレナさんの夫、ミハイルさん(37)=仮名=が動員されたのは、軍事侵攻が始まって7か月後の2022年9月だった。
ロシア軍はウクライナ軍の反転攻勢を受け、多くの死傷者を出した。兵士の不足を補うため、プーチン大統領は9月21日、予備役の部分動員令に署名。すぐに動員は始まり、軍務経験のないミハイルさんも翌22日、召集された。
「見送りに来て。動員されるから」仕事中、夫から突然メッセージが届いた。「2時間後に出発する」と続き、召集令状の画像が添付されていた。
職場に事情を伝え、すぐに飛んでいったが、バスに乗せられて戦地に向かう姿を遠くから見守ることしかできなかった。
エレナさんによると、夫はロシアが実効支配するウクライナ東部の激戦地に送られた可能性が高い。
戦地では通信状況は安定せず、3カ月以上、連絡が取れないこともあり不安が募った。砲撃の音が聞こえたこともあった。
「バーン、バーンと大きな音がして、『早く逃げて! 隠れて!』 と叫んだこともあります」
最近はやりとりする機会は増えたが、監視されている。
「本当は電話で話すことは許されてはいません。チェックされ監視されているのは分かっています」
夫が戦地にいることを身につまされる。
がれきから助けた猫と帰国 夫が語る“戦地の惨状”…装備さえ自前で用意
2023年9月、ミハイルさんが戦地でがれきの下から助け出した子ネコを連れ、いったん帰ってきた。1年ぶりの再会。14日間の休暇だった。
期間中、夫と9歳の次男の3人で、ロシア南部の保養地ソチを旅行した。大学生の長男とも自宅での団らんを楽しんだ。
料理が得意なミハイルさんが家族の大好物を振る舞うことも。まるで侵攻前の日常生活のようだった。
気になるのは戦地の暮らしぶり。エレナさんからは聞かないようにしていたが、夫は時折、自ら語りだした。
「3カ月間シャワーを浴びられず、洗濯もままならないと言っていました」(エレナさん)
装備すら自前だった。保養所のような兵舎を紹介する国営放送の報道とは明らかに違った。
「夫は戦車に関わっているようでした。メンテナンスに必要なオイルは自分で用意。防弾チョッキやヘルメットもいつ支給されるかわからず、死にたくなければ自分で買うしかないのです」
最も驚いたのが、ケガをしても病院には行けないことだ。
「夫は3度、衝撃波で脳しんとうを起こしたのですが病院には行っていません。治療を受けると、退院後に『ストームZ』という部隊に入れられる可能性が高いから、と」
「ストームZ」とは元受刑者を中心とした“懲罰部隊”。まともな装備や兵器を与えられず、最前線に投入される。ここへの転属を恐れ、兵士たちは治療を拒むのだという。
軍事侵攻が始まった当初、エレナさんは、軍務経験のある国民がロシアのために戦うことは当然のことだと考えていた。
兵役を拒否したり脱走したりすれば、最大15年の禁錮刑が科される可能性もある。残された家族が当局の監視下に置かれ、不自由な生活を送ることも避けたかった。
しかし、一般人の夫が動員され、戦地の実情と政府の発表とのギャップで、考えは変わった。
“書類の不備”を理由に支給されない月も…どんどん苦しくなる生活
侵攻以降、生活は少しずつ苦しくなった。
「プーチン大統領は『動員兵に19万5000ルーブル(約32万円)支払っている』と言っていましたが、税金を引く前でもそんなにもらっていません。書類の不備を理由に給与の振り込みが滞る月もあります」
エレナさんの給料は家のローン返済や生活費に消える。20歳の長男は2023年に大学に入学したばかりで、次男は9歳。2人の学費がかかる。
ミハイルさんが使うヘルメット代や戦車のオイル代も必要だ。
夫が動員される前は、夫婦それぞれに収入があり、生活に余裕があった。
動員後は収入が減る一方、物価は上昇。スーパーの卵は1パック60ルーブル(約98円)から倍の130ルーブル(約212円)に跳ね上がっている。
食べ盛りの子どもに我慢はさせたくない。以前はあたりまえだった外食も夫の動員後は回数が減った。
「夫が何を食べているのか、きちんと食べられているのか気になって、申し訳ない気持ちになるのです」。寂しげにつぶやいた。
「制限がない動員は奴隷」訴えても9割無視―回答あっても“国民の義務”
エレナさんはプーチ・ダモイのメンバーとともに動員兵の早期帰還を求め、国防省や議会、プーチン大統領に陳情書を送ってきた。
9割は無視され、残りの1割は「ロシア軍に従軍することは、すべての国民の義務であり、名誉である」との回答だった。
「これが祖国の兵士に対する扱いなのか。動員に期限がないのは奴隷のようだ」。エレナさんは憤る。
治安当局の“反戦”に関連したデモや集会への弾圧は厳しさを増している。これまでに約2万人が拘束された。
今のところ、プーチ・ダモイの関係者はまだ誰ひとり逮捕されていない。花を手向ける行為を取り締まることは難しいとみられる。
当局は職員を何人も配置して監視し、参加者や取材記者を“現場にいた証し”として撮影する。そして、腹いせのように、記者だけを毎週のように警察署へ連行していくのだ。
取り締まりへの恐怖あるが活動継続「愛する人を失う方がよっぽど怖い」
プーチ・ダモイに参加してから、治安当局の職員が自宅にたずねてくるようになった。スマホもハッキングされ、通話も盗聴されている恐れがある。
「誰かがあなたのデータを検索しようとしましたが、ブロックされました」。注意を促すメッセージがほぼ毎日のように表示される。
取り締まりへの不安や恐怖はあるが、エレナさんは活動をやめるつもりはない。「愛する人を失う方がよっぽど怖い」。キッパリ言い切った。
「ママ、プーチンに手紙を書きたい」
唐突に次男が言い出した。「どうしてパパを戦争から帰らせてくれないのか聞くんだ」と。夫が休暇を終えて戦地に戻るときには「行かないで」と言って離れず、これまで見たことがないくらい大泣きした。
「子どもでも、戦争の恐ろしさをわかっています。こんなことをするロシアは間違っている」
さらに、長引けば20歳の長男が動員されるかもしれない。「無期限の動員に同意していないことを示し、紛争を終わらせるべき」。まずは夫が早く帰ってくること、そして、1日も早く戦争が終わり、平穏な日常が戻ってくることを願い続けている。
編集後記
「現状を知ってほしいから」。エレナさんは監視と弾圧が厳しさを増すなかで、最後まで本名と顔写真の掲載を了承し取材に応じてくれたが、安全を考慮して仮名とした。
プーチン大統領が再選を目指すロシア大統領選挙まであとわずか。反政府活動家のナワリヌイ氏が獄中で死亡し、治安当局も取り締まりを強化している。
日々、報じられる戦況の影に、父親や息子の無事を祈り、待ち続ける女性たちがいること、厳しい生活を強いられていることを見過ごしてはいけないし、伝えていく必要性を強く感じている。