2023年10月、福井に住む宮越秀志さんは100歳を迎えた。100年間の人生の中で最も伝えたいことは自身の「シベリア抑留」についてだった。氷点下50度にもなる極寒の地で2年間の強制労働を体験。80年間沈黙を続けてきたが、「世界が平和になってほしい」とカメラの前で初めて悲惨な戦争体験を語った。

初めて語る80年前の壮絶な戦争体験

福井・坂井市の宮越秀志さんは2023年10月、100歳の誕生日を迎えた。坂井市から100歳を祝う表彰を受け、訪問した池田坂井市長に元気の秘訣は「嫌いなものでも食べる」ことと笑顔で話した。今もマレットゴルフを楽しんでいる。

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宮越さんは約80年前、陸軍下士官として戦争を体験し、生き残った。

宮越秀志さん:
一番印象に残っているのは、シベリア抑留です。終戦になり抑留されました。戦争中は身体検査があって、満州へ入隊することになった。そのときは真冬寒い時期だった。零下30度でしたね。

語りだしたのは約80年前の壮絶な戦争体験だった。

1943年、宮越さんは19歳の時に男性国民の義務だった徴兵検査を受け、関東軍に配属された。1944年年2月に、中国東北部の満州国へ渡り、全国から集められた20歳前後の初年兵とともに軍事教育を受けた。

宮越秀志さん:
銃なんか持ったことなかった。長男やったので、帰れば家の仕事をしなければならなかったので、軍で生活をする気持ちはなかった。

軍隊の階級は大きく3つに分かれ、下から「兵」「下士官」「士官」に分類された。宮越さんは、エリートにはならない「下士官」に注目。
少ない採用枠を潜り抜け、念願の下士官に配属された。

満州国にわたり1年半が経過した1945年8月、ソ連軍が侵攻してきた。日本は戦況が悪化し、宮越さんたちには「自爆」の作戦計画が伝えられた。

宮越さんは「戦車を破壊するため、下へくぐって自爆やね。砲弾の代わりに自爆で自殺する。死ぬ覚悟で爆弾を持って入り込む、戦車の下へ。そんな教育を受けていた」と、戦時下の過激な教育について語った。

実際に手渡されたのは、銃弾5発と1つの手りゅう弾だけ。「これでどう戦えばいいのか…」。戦車で進行してくるソ連軍との圧倒的な鉄量の差を痛感した。ただ、宮越さんの部隊は幸いにも実戦を免れ、生き残った。

氷点下50度 始まったシベリア抑留

1945年8月15日、日本は敗戦を認めた。宮越さんがその事実を知らされたのは2週間後だった。周囲はソ連軍に囲まれていた。

宮越さんは「ソ連の言うままですわ。銃をもったソ連の兵隊が周りを囲って抵抗できないようにしている。この後どうなるか。その気持ちは抜けなかった」と当時の心境について話した。

持っていた武器はすべて没収。ソ連兵には「日本に帰れる」と伝えられ、列車に乗った。しかし列車の窓から見えたのはソ連領のバイカル湖。「だまされた。ソ連へ連れていかれる」と直感した。到着したのはソ連のハバロフスクだった。

この日からシベリア抑留が始まった。肉体労働を強いられたのは体格のいい人に限られ、宮越さんにはまき集めや掃除が科せられた。最低気温は氷点下50度になる日もあり、氷ですべてが埋め尽くされているようなひどい状態だったという。

中でも一番つらかった記憶は「おなかいっぱいにならなかったこと。ご飯のようなものはもらえない。パンといっても小さい、カステラくらいの大きさ。それにジャガイモがあって一つずつもらえる」と当時の過酷な状況を振り返った。

宮越さんは水を飲み、空腹をしのぎ続けた。極寒の地に抑留された日本人は57万人余り。疲労や栄養失調で約10人に1人。5万5,000人が命を落としたとされる。

戦争は「みじめなこと」

抑留から2年。宮越さんに「ナホトカ経由でソ連から出られる」との連絡があった。

「早く日本に足を入れたい」と思い続け、1947年に念願の帰国を果たした。そして3年半ぶりに父親と再会した。

宮越秀志さん:
なんとも言われん…、言葉にならなかったね…。そのときに母親が亡くなったと言われた。父からは伝えられたのは、その言葉だけだった。

宮越さんはこれまで、戦争体験を語ることはなかった。取材に応じたのは、世界の平和を祈っているからだ。戦争は「みじめなこと」とし、起こしてはいけないと語気を強めた。

宮越秀志さん:
相手のあることだから自分の思い通りにはならない。どちらか折れていればいいが、折れないもんやで…。戦争は長引けば長引くほど悪くなる方向へ進んでいく。繰り返してはダメ。あんなみじめなことはやってはいかん。

(福井テレビ)

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