ベストセラー『バカの壁』など、様々な著書で知られる、東京大学名誉教授で解剖学者の養老孟司さん。これまで様々な場所で講演をおこなってきた。

与えられたテーマを元に話してきたという養老先生だが、説いてきたのは「ものの見方」だと明かす。その「ものの見方」とはどんなものなのだろうか。

知の巨人・養老先生が様々な講演会で話した内容をまとめた書籍『こう考えると、うまくいく。〜脳化社会の歩き方〜』(扶桑社)から、一部抜粋して紹介する。

養老孟司が説くのは「ものの見方」

本書はある時期の私の講演録である。さまざまな場所で、さまざまな聴衆を相手に、通常は与えられたテーマについて論じたつもりだったが、結局はそのときに自分が考えていたことが中心になってしまった。

だから講演を頼んだ方も、期待したような話ではないと思ったに違いない。事実、そう言われたこともある。それはもちろん私のせいで、なぜそういうことになるのかというと、私が説くのは「ものの見方」であって、そのもの自体についてではないからである。

さまざまな場所で、さまざまな聴衆を相手に講演会を行ってきた(イメージ)
さまざまな場所で、さまざまな聴衆を相手に講演会を行ってきた(イメージ)
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私の子どもが小学生だったときに「お父さん、宇宙の果てってどうなっているの」と私に訊いた。

そのとき、たまたま食卓の上にコップがあったから、そのコップをどけて、「ほら、このコップにはヘリがあるだろ、でもコップをどけた跡にはコップが入っていた場所つまり空間が残っている。その空間にはコップと違って、ヘリがないだろ。だから宇宙の果てにはヘリはないんだ」と説明したら、子どもが怒った。そんなことは訊いてない、と言いたかったのであろう。

この例は子どもが生まれて初めて空間という概念に気づいたときに生まれた疑問だろうと私は解釈したのである。それまで見るものはほぼすべてモノだったはずである。では、そのモノが入っていた場所を何と呼ぶか。それが空間である。つまり子どもはいつも見つけているモノから連想して、宇宙を見ようとしているから、「宇宙の果て」という疑問が湧く。しかし宇宙はモノではなく、まさに空間だから、それはモノの形と同じようには把握できない。

子どもはそんな面倒なことは考えないから、私の返事に怒ったのであろう。

生物の形を解釈するやり方は…

これは私が考えるときの癖だから、仕方がないのである。

私が初めて書いた本は 『形を読む』(講談社学術文庫)で、これは生物の形を解釈するやり方にはどんなものがあるかを論じており、結局は四つか五つしかない、と結論付けている。例えば心臓とは何ですか、と訊かれたら、ポンプです、という(機械論)。なぜポンプが必要なのですか。全身に血液を送るためです(機能論)。

「心臓とはなんですか」と聞かれた養老先生が考えることは…(イメージ)
「心臓とはなんですか」と聞かれた養老先生が考えることは…(イメージ)

心臓は心房と心室に分かれていますが、どういうことですか。心房は血液を受け入れる部分で、心室はそれを押し出す部分です(機械論)。哺乳類の心臓は二心房二心室 なのに、魚類では一心房一心室です。これはなぜですか。脊椎動物の祖先は海中に棲んでいたので、えらで呼吸していました。えらは海水から酸素を取り込むための器官で(機能論)、血液は心室からえらに向かって押し出されます。ところが両生類の段階以降には陸に上がって、肺呼吸が始まります。

そうなると、循環には体循環と肺循環の二つが生じて、心房も心室も二つに分かれるようになります(以上の説明は系統発生)。ヒトでも胎児が育ってくる段階で、心房と心室の間に境ができてきます(個体発生)。そこがうまく進まない場合が、心室中隔欠損や心房中隔欠損です(個体発生)。

ややこしいけど、そういうことなのである。これは心臓の例だが、あらゆる臓器に関する議論も、こうした視点で整理できる。

“人工”対“自然”で見えてくるもの

一般向けの講演では、具体的な社会の問題について話してくださいと頼まれることが多い。私は社会学者でも教育学者でもないので、そういう問題に直接には答えられない。だから社会は、脳つまり意識が作り出したものという視点から語ることにしていた。

社会とはどういったものなのか…(イメージ)
社会とはどういったものなのか…(イメージ)

意識が作らなかったものを自然と呼び、それに対して意識が作ったものが人工だから、人工対自然という対立軸を置いて考える。そうすれば、たいていの社会の問題を自分なりに取り扱うことができる。これはあくまでも「見方」なので、内容が正しいとか、間違っているとかとは関係がない。

テーブルは“人工物”なのか?“自然物”なのか?(イメージ)
テーブルは“人工物”なのか?“自然物”なのか?(イメージ)

あるとき、大学でイランからの留学生を相手に自然と人工の話をしていた。

眼の前の机を指して「これは人工物だろ」と私が言うと、留学生は「でも材料(マテリアル)は自然です」と答えた。それはその通りなので、いわば当たり前だが、日本人の学生からそういう反応を受けたことはない。

物理学には質量という概念があるが、これはなんでもないようで、じつは難しい。私自身、いまだに「わかっている」とは言えない。マテリアリズムを日本語では唯物論と訳すが、マテリアルは「物」ではない。日本語で「物」はモノという感じになり、具体的な個々の実体を指してしまうことが多い。

本書でも死体はモノか、という議論が出てくるが、これは日本語の世界で生じる問題である。質量を考えたら、生きていようが死んでいようが変わりはないわけで、生死と物質性は無関係である。

「考える」とは「自分の頭の整理だ」

「どうしてそういうことを考えるのですか」。この種の質問は何度も受けた。

私も特に考えたいわけではない。ただ仕事をしていると、ひとりでに考えざるを得なくなるのである。多くの人が「考えない」のは、考えても答えが出ないと感じているからではないか。

考えるのは、答えを得るためではない。頭の中で問題をきちんと位置付けるためである。答えは関係ない。答えは出ることも、出ないこともある。答えが出ないまま、あとは放っておく。位置付けがちゃんとしていれば、いずれ答えが「やってくる」。

考えるのは答えを得るためではなく、自分の頭を整理するため(イメージ)
考えるのは答えを得るためではなく、自分の頭を整理するため(イメージ)

問題が正しく位置付けられていれば、おのずから答えが出る。そのために自分の頭を整理しているのである。自分の頭の整理だから、他人に頼んでもダメ。いくら勉強してもダメ。自分の頭なんだから、他人の知恵を借りてもムダである。

そこを間違えて、他人の考えを聞けば聞くほど、ものがわかるようになると思う人が多いのではなかろうか。問題なのは他人の頭ではなくて、自分の頭なんだから、自分の頭の中くらい、自分で整理しなきゃダメである。

「みんなで考えましょう」は混乱を招く(イメージ)
「みんなで考えましょう」は混乱を招く(イメージ)

「自分で考えろ」とよく言うが、考えるのは、自分以外にあるか。「みんなで考えましょう」というのが日本流だが、考えるのは自分に決まっている。どうやったら、「みんなで考え」られるんだろう。自分とか個性とか言いながら、「みんなで考えましょう」というのは、なんたる世界か。若者が混乱して当然である。

「考える」とは「自分の頭の整理だ」と学校では教えないと思う。ただ勉強しろ、と言うだけ。だから、なにを、どう学んだらいいのか、わかりません、という結果になる。

そこからまず考えればいいじゃないか。私ならそう思う。考えたくないんです。そう言われそうである。それなら考えなければいい。

「ジャニーズ問題をどう思いますか」

先週、週刊誌の取材があって、「ジャニーズ問題をどう思いますか」と訊かれた。「なにそれ、全然わかりません」と言うしかなかった。実際にそうなんだから仕方がない。そんな問題知っていても知らなくても私は困らない。虫が採れなくなるわけではないし、明日から歩けなくなるというわけでもない。

無関係だから関心を持たないことも頭の整理術の一つ(イメージ)
無関係だから関心を持たないことも頭の整理術の一つ(イメージ)

多くの人が多くの「問題」について、似たような態度をとっていると思う。自分とは無関係だから関心を持たないことにする。これも頭の整理術の一つで、根本的には私は自然にしか関心を持たない。

先年、地方を訪問したときに、修理中の古いお城を見せてくださると、市の職員の方が親切に声をかけてくださった。「私は人の作ったものに関心がありません」とお断りしたが、せっかく親切に言ってくださったのに、とやや心が痛んだ。

私の視点からジャニーズ問題を語ることはできる。性被害の問題らしいから、これは意識で作られた社会と身体性の相克である。性はヒトの自然性の一つで、これを断固意識的にコントロールしようというのが現代なんだから、「問題」が起こって当然である。

男女平等の問題も同じで、セックスつまり自然としての性と、ジェンダーつまり社会的な性区分の折り合わせだから、「問題」が起こるに決まっている。ジャニーズ問題をそこから滔々と論じてもできないことはないけれど、アホらしいからやめた。

本書を読んで「考えること」を少しでも「考えて」くだされば幸いだと思う。

『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社文庫)

養老孟司
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業。専攻は解剖学。東京大学名誉教授、京都国際マンガミュージアム名誉館長。1989年、『からだの見方』(筑摩書房)で、サントリー学芸賞受賞。ほかに、『唯脳論』(青土社/ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書、毎日出版文化賞受賞)、『養老孟司の大言論(全3巻)』(新潮文庫)、『遺言。』(新潮新書)『バカのものさし』(扶桑社文庫)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など多数。

養老孟司
養老孟司

1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業。専攻は解剖学。東京大学名誉教授、京都国際マンガミュージアム名誉館長。1989年、『からだの見方』(筑摩書房)で、サントリー学芸賞受賞。ほかに、『唯脳論』(青土社/ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書、毎日出版文化賞受賞)、『養老孟司の大言論(全3巻)』(新潮文庫)、『遺言。』(新潮新書)『バカのものさし』(扶桑社文庫)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など多数。