東京大学名誉教授で解剖学者の養老孟司さんは、これまで様々な場所で講演をおこなってきた。

その内容をまとめた書籍『こう考えると、うまくいく。〜脳化社会の歩き方〜』(扶桑社)には、私たちが行きていく上で参考になる“現代社会を快適に生きる答え”が書かれていた。

子育てに関する養老先生の“見方”を説いた講演「子どもを育てるとは『手入れ』をすること」から一部抜粋して紹介する。

子どもの財産は「漠然とした未来」

私が言いたかったのは何かというと、エンデ(※ミハエル・エンデ、小説家。著書に『ネバーエンディング・ストーリー』、『モモ』など。ここでは『モモ』が作中で闘った時間泥棒の話)の言う通りで、すべてがこうやって予定の中に組み込まれていったときに、誰が割を食うかということです。

子どもが持っている財産は“未来”(イメージ)
子どもが持っている財産は“未来”(イメージ)
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それはもう間違いなく子どもです。なぜなら、子どもというのは生まれた瞬間は、何にも持ってません。知識もない、経験もない、お金もない、力もない、体力もない。何にもない。

それじゃ、子どもが持っている財産というのは何か。一切何も決まってない未来です。漠然とした未来です。それがよくなるか悪くなるか、それもわかりません。

わかりませんが、ともかく彼らが持っているのは、何も決まっていないという、そのことです。その間はたぶん生きていくだろうと、そういうことです。

子どもは「何も決まっていない」ことを持っている(イメージ)
子どもは「何も決まっていない」ことを持っている(イメージ)

そうすると、すべてをこうやって予定していくと、子どもの最大の財産は当然のことながら減っていきます。そして、私どもの社会では、たぶん皆さん方もかなりそうじゃないかと思いますが、特に働いておられる方はそうだと思いますが、先行きのことを決めなければ一切動かないというくせがついています。

田んぼの景色を作り出す“手入れ”

それで申し上げたいのは、都市化する以前の、ですから私が育ったときの鎌倉だったらどうだったか、ということなのです。だから、さっき山の話をしたんです。その里山とか田んぼとか、そういうものはちょっと違うわけです。

“手入れ”された田んぼがある風景(イメージ)
“手入れ”された田んぼがある風景(イメージ)

非常に美しいですね、日本の田んぼというのは。ところが、田んぼはお百姓さんが手入れをするわけです。

「手入れ」という言葉なんですが、今、手入れというと、ほとんどの人が警察の手入れだと思っているんですね。だから、手入れはほとんど死語になっちゃったんじゃないかと私は思っているんですが、この手入れって、非常におもしろい言葉なんです。

なぜかというと、これがもう典型的にそうなんですが、ここは女性が多いですからはっきり申し上げると、女の方で、極端な人は毎日毎日、一時間か二時間、手入れしておられますね。鏡に向かって。これ、目的は何だというと、おそらく目的ははっきりしない。そうですね。

田植え前から”手入れ”されている(イメージ)
田植え前から”手入れ”されている(イメージ)

田んぼがそうだと思います。お百姓さんは、いい稲をつくるのはもちろん大きな目的ですが、稲が実ってくれなければしょうがないんですが、雑草が生えたら抜いて畦(あぜ)が壊れたら修理して、とやっています。

それはしかし、本当にそのときに稲ができる目的でやっているかというと、そうじゃないと思うんですね。何か当面そうしないと気が済まないからやっているんですけども、そういうふうにしていくと、何と最終的には、外国人がびっくりするような、きれいな景色ができてまいります。

じゃあ、その美しい景色をつくろうと思って手入れしているかと、そうじゃないと思います。

“手入れ”される植木(イメージ)
“手入れ”される植木(イメージ)

植木屋も典型的にそうですが、何か植木屋がかちゃかちゃ切っていますが、あれはめちゃくちゃ切っているわけではない。そうだからといって、あるはっきりした目的があるわけでもない。

要するに何かきちんと手入れしていると、いつの間にかできてくるものがある。その感覚が手入れの感覚。

これは先ほどの舗装する、地面を舗装するという感覚とは非常に違うということは、おわかりいただけるんじゃないかと思います。みなとみらいが典型的にそうですが、ああいうふうに地面をつくってしまう。まさにつくってしまうのであって、あれを誰も手入れとは言いません。

“手入れ”は意識してするものでは無い

私は東大に長い間勤めていましたが、東大病院は汚いんですよね。本当に汚い病院でして、ライシャワー(1961年〜1966年まで駐日アメリカ合衆国大使)が入院したときに、ゴキブリが出たということで、やっとお金が出ることになって直すことができたんです。

でも、僕はあそこ、やがてまた汚くなると思います。なぜかというと、あの中はこの手入れの感覚が一番乏しいからです。

人が住まなくなった家は痛んでくる…(イメージ)
人が住まなくなった家は痛んでくる…(イメージ)

皆さん方、お宅を手入れしておられるから、いつの間にか人間の住んでいる家というのが保たれるわけであって、なぜか知らない、暗黙のうちに手入れしているんです、中に人間が住んでいれば。住んでない家って、必ず傷んでくるとよく言います。それはまさにこれじゃないか。

これ、何か目的があってやっているかというと、たぶんやってないと思います。はっきりした目的を聞かれると困るんだと思います。何かむちゃくちゃな理由を言います。きちんとしておきたいから、気になるからとか。

お化粧が典型的にそうだと思います。何も今から男についてきてほしいと思っているんじゃない。そうじゃないと思う。だけど、何か一生懸命やっているわけです。まさにそのことなんです。

(イメージ)
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このことはそのまま子育てにも言えるので、私は子どもを育てるって、そういうことじゃないかなと思います。

自然に手入れをしている。我々の体も自然ですから、自分のつくったものじゃないですから。一方で思うようにつくり直したいこともあって、だから最近は整形がはやるんだと思います。もう本当に顔自体つくり直しちゃう。この顔自体つくり直しちゃうという考えは手入れの感覚とは非常に違う。

手入れというのは、もともとあったものを認めておいて、それに何か人間の手を加えていくということです。子どもが典型的にそうだと思います。

手入れの感覚が日常生活になくなってきた

その子どもの扱い方がわからなくなってきたのは、私はこの手入れの感覚がなくなってきたからじゃないかと思う。日常生活にですね。

それが里山にも出ているし、自然にも出ているわけであって、日本全体の傾向です。

日本の原風景はどうなっていくか…(イメージ)
日本の原風景はどうなっていくか…(イメージ)

その傾向は、つまり乱暴に言えば都市化と結びついているのであって、都市化って何かといえば、頭で考えて物事を思うようにしようとすることです。

子どものころのカニの話を何でしたかというと、そういうものを見て、バケツにいっぱいカニをとって、おまえどうするのと言われても、別にどうするわけでもないんですよ。放すしかないんです、あとは。

だけれども、そういうふうな無目的なことというのを人間はやるんで、そのことがじつはある意味で生きているということなんですね。

(イメージ)
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当時から僕は大人によくそんなふうに聞かれましたよ。虫が好きで昆虫採集をよくやりました。母がよく言ってました。自分じゃ覚えてないんですけども。

私のところは警察のわきで、横丁でしたから、幼稚園から帰ってきて、私が横丁に座っているというわけです。しゃがんでいる。母が見ていて、何しているのと。犬のフンがある。犬のフンがあって、どうしたの。虫が集まっている。虫が来ている。それとか昆虫採集でどうとかこうとかとやっていますと、母が聞くわけです。こんな虫のどこがおもしろいのと。

どこがおもしろいのと言われたって、本人がおもしろいんだから、しょうがないんで、そういうふうにして人間というのは何かいろいろ覚えるんです、子どものころから。

つまり、好き嫌いというのは人によってあるもので、これはどうしようもないんだな。大人というのは、そういう好きなことをやっているときに、それは何のためだという無意味な質問を繰り返しする動物だということは、そのころから私はわかっている。
 

『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社文庫)

養老孟司
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業。専攻は解剖学。東京大学名誉教授、京都国際マンガミュージアム名誉館長。1989年、『からだの見方』(筑摩書房)で、サントリー学芸賞受賞。ほかに、『唯脳論』(青土社/ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書、毎日出版文化賞受賞)、『養老孟司の大言論(全3巻)』(新潮文庫)、『遺言。』(新潮新書)『バカのものさし』(扶桑社文庫)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など多数。

養老孟司
養老孟司

1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業。専攻は解剖学。東京大学名誉教授、京都国際マンガミュージアム名誉館長。1989年、『からだの見方』(筑摩書房)で、サントリー学芸賞受賞。ほかに、『唯脳論』(青土社/ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書、毎日出版文化賞受賞)、『養老孟司の大言論(全3巻)』(新潮文庫)、『遺言。』(新潮新書)『バカのものさし』(扶桑社文庫)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など多数。