東京に住むウチナーンチュ(沖縄にルーツを持つ人)同士が交流しながら、沖縄の伝統文化や芸能を発信するさまざまなイベントを企画しているのが東京沖縄県人会。

67年前の1956年に結成され、今日まで歴史を紡いできた。2023年9月に都内にあるホテルニューオータニで行われた沖縄の伝統行事が盛大に開かれ、会場は大いに盛り上がった。東京沖縄県人会が誕生した背景を取材した。

東京で沖縄伝統の生年祝い!?登場したのは…

2023年9月18日、ホテルニューオータニに1台のオープンカーが到着した。風車が至る所に取り付けられ、ボンネットにはド派手なレイが取り付けられている。

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これは数え年で97歳の長寿を祝う沖縄伝統の生年祝い「カジマヤー」。登場したのは、この日の主役である川平朝清(かびら ちょうせい)さん。サッカー日本代表の実況中継などでおなじみのジョン・カビラさん、川平慈英さんの父親。

川平朝清さんは、沖縄で戦後初めてのアナウンサーとして活躍。また、テレビやラジオ放送の発展に尽力し、現在、東京沖縄県人会の最高顧問を務めている。

東京沖縄県人会の50年のあゆみをまとめた記念誌に、当時、会長だった川平さんが寄稿している。

『五十周年記念誌』より
「かつて薬膳のように扱われたゴーヤーチャンプルーやラフテーは身近なものになり、音楽や舞踊もファン層を広げつつあります」
「しかし、いいことばかりではありません。教科書検定問題であり、米軍基地のもたらす数々の不祥事。癒しの島と喧伝される一面がある一方、癒されない一面もあるのが沖縄の現状です」

沖縄の祖国復帰運動にもかかわる

東京沖縄県人会が結成された1956年当時、沖縄はアメリカの施政権下にあり、祖国復帰運動が盛んに行われていた。

現在、東京沖縄県人会の会長を務める仲松健雄さんは「東京にいるウチナーンチュも沖縄のために一緒になって活動しようじゃないかということで、ウチナーンチュの心に寄り添った形でという活動方針を打ち出した」と復帰運動のかかわりについて説明する。

1955年のテレビ放送では、「東京の県人会のメンバーは、沖縄の日本復帰について何度も話し合い、極東軍司令部や日本政府に訴え続けた」と伝えている。

こうした流れの中で東京沖縄県人会は結成され、大行進やハンガーストライキを行い、沖縄返還を訴えた。

東京沖縄県人会の仲松健雄会長は、「当時はインターネットが無いなか、情報は東京と沖縄でどうしても格差があった。そういった面で、東京にいる県人会のウチナーンチュが直接政府と交渉する。あるいはアメリカ大使館に行くといった動きというのは、非常に効果的だったのではないかと」話す。

復帰運動以外にも、1959年に起きた宮森小学校ジェット機墜落事故を受けて、強い姿勢で対米交渉をするよう政府に要請。

2007年には、沖縄戦の集団自決について日本軍の関与が削除・修正された文部科学省の教科書検定に対し、東京都内で県人会主催の集会が開かれ、教科書検定の撤回を求める意見書が採択された。

離れた土地にいても故郷を思う人たちが集い、行動を起こしてきた歴史について仲松会長は、「県人会の活動の原点は、沖縄愛とふるさと貢献」だと力を込める。

沖縄の伝統文化を全国に伝えていきたい

現在の東京沖縄県人会の活動は、沖縄の伝統文化や芸能を通じた交流が中心となっている。

東京沖縄県人会の仲松健雄会長は、「沖縄にいるよりも、むしろ沖縄を離れて東京にいる方が、沖縄や伝統芸能などへの思いが強い」と話す。

2000年に第1回目の沖縄芸能フェスティバルがスタートし、毎年のように開催。首都圏のど真ん中で沖縄の伝統芸能を発信することにより、沖縄芸能のファンを作ってきた。

仲松会長は、「カジマヤーは沖縄の伝統芸能ということで、沖縄では盛んにやっているが、沖縄だけの伝統ではなく、全国でカジマヤーを知っていただきたい」と、9月に行われたカジマヤーを祝う会も、県人会のシンボルでもある川平さんの長寿を祝うとともに、沖縄の伝統文化・トゥシビー(生年祝い)を県外の人にも知ってもらうきっかけにしたかったと話す。

東京沖縄県人会 最高顧問の川平朝清さんは、「沖縄にいるときはカジマヤーを村や町全体でやっていて、ところによっては、オープンカーでパレードをして、その前を小学生たちの鼓笛隊とかが練り歩いていた」「沖縄はお年寄りを本当に大事にするところだなと思っていたら、私がそういう歳になり、お祝いして頂き非常に感激した」と感謝の思いを伝えた。

独自の歴史を歩む東京沖縄県人会。これからも続く活動は、故郷沖縄への思いであふれている。

(沖縄テレビ)

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