宝達志水町より北が能登、かほく市より南が加賀に分けられている(諸説あり)。その能登地方には、日本一の旅館「加賀屋」が。加賀地方には、老舗旅館「のとや」がある。客からすればなんともややこしいことなのだ…。いったいどうしてこんなことになったのか。調査した。

加賀に“のとや”能登に“加賀屋”のなぜ

秋末械人アナウンサー:
「加賀屋」「のとや」の名前の理由を探るべく、やってきました粟津温泉は「のとや」まずはこちらでお話をうかがっていきます。

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秋末アナ:
こんにちは。どうして加賀地方にあるのに“のとや”という名前なのか教えてほしいのですが…
のとや若女将 桂木美咲さん:
こんにちは。よく言われるんです。

のとや22代目の若女将、桂木美咲(かつらぎみさき)さん。

のとやの創業は、鎌倉時代末期の1311年。実に700年以上、この粟津で温泉客をもてなしてきた。

秋末アナ:
単刀直入にお伺いしますが、「のとや」は加賀にあるのに、なんで「のと」なんでしょうか?
桂木さん:
源平合戦で破れた平家の落人さんが、こっちに流れてきて、浅い所から温泉が湧いて、人を泊めたりもしようかというのが、始まりだと私は聞いています。
秋末アナ:
能登というのはどこからくるんですか?
桂木さん:
珠洲の方みたいです。

屋号の由来を説明する桂木さん
屋号の由来を説明する桂木さん

時は鎌倉時代、「平家にあらずんば人にあらず」と栄華を誇った平時忠は、源平の合戦に敗れ、能登に流された。

珠洲市にある平家の墓
珠洲市にある平家の墓

それから100年以上経ち、奥能登でひっそりと暮らしていた、のとやの創業者、桂木久三郎(かつらぎきゅうざぶろう)は珠洲を離れ加賀市打越町(うちこしまち)にある勝光寺(しょうこうじ)を目指したそうだ。

勝光寺(しょうこうじ)を目指した理由はよく分かっていないが、その時、粟津で温泉をほりあてたのが、「のとや」創業の由来と言い伝えられている。

桂木さん:
珠洲から流れてきて、自分のふるさとを思って『のとや』と名付けたんでしょうね」
秋末アナ:
創業者の出身?
桂木さん:
故郷を思っていたみたい。

日本一の旅館「加賀屋」は能登地方の七尾市和倉温泉にある理由

それではもう一つの疑問、和倉温泉の加賀屋は、なぜ能登にあるのに加賀屋なのか。

七尾市和倉温泉
七尾市和倉温泉

加賀屋の道下範人(みちしたのりひと)支配人に伺った。

加賀屋 道下範人支配人:
先代が河北郡の津幡町出身で、昔は加賀の國といわれておりまして、加賀百万石と言いますと、言わずと知れた雄藩ですので、世間一般に広く知れ渡り、大きく飛躍したいという所からこの「加賀屋」という屋号をつけたと聞いております。

道下支配人
道下支配人

秋末アナ:
のとやさんも創業者の出身地で、加賀屋さんも創業者の出身から名前がついたんですね!

加賀屋の創業者、小田輿吉郎(おだよきちろう)さんは津幡町出身。こちらも「のとや」と同じ、ふるさとへの思いから「加賀屋」という名前をつけたそうです。

加賀屋の創業者・小田輿吉郎さんは津幡町出身
加賀屋の創業者・小田輿吉郎さんは津幡町出身

道下さん:
農業をやっておりましたので、一年の収穫の疲れを癒しに和倉温泉に湯治に来られた際に、12室30人入る小さな旅館を見つけて、夢大きくと言うことで、今日に至っております。

加賀屋の創業は明治39年。すでに和倉温泉には15の旅館が軒を連ねていたと言う。新参者ながら加賀百万石のようにきくなろうという思いから、どこよりも客に寄り添ったサービスに徹した加賀屋。

わずか12室だけの旅館から、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で何度も1位に選ばれるような日本一の旅館に成長したのだ。

道下さん:
先代が名付けたことなので、それにあやかって若い人も先代の思いを大きく飛躍したいということですから、それを受け継いでやっていきたいと思います。

ということで、能登出身者が創業したから「のとや」加賀出身者が創業したから「加賀屋」ということだった。

どちらも人気の旅館。是非、石川に来るときは泊まってみてはいかがだろうか?その際は、能登と加賀、場所を間違えないようにお願いしたい。

(石川テレビ)

石川テレビ
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