石川県珠洲市出身で103歳の竹澤平和吉さんは、金沢の第七連隊に所属し旧満州などで戦争を経験した。厳しい訓練に、戦友の死。鮮明に覚えているあの頃の記憶に終戦から80年経った今、耳を傾ける。

今、平和ですか ー 103歳の戦争体験者が語る平和への思い

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「ああ、これは悲しい。こんなこと」

珠洲市出身の竹澤平和吉さんが、80年前の戦争の記憶を語る言葉には、今なお深い悲しみが宿っている。103歳となった今も、あの日々の出来事が鮮明に蘇るという。

日本だけで310万人あまりの犠牲者を出した第二次世界大戦の記憶。

珠洲市寺家に四男として生まれた竹澤平和吉さん。「平和」に「吉」と書いてへわきちと読む。

第一次世界大戦が終わり平穏な日々を願った、父親が名付けたそうだ。

終戦から80年、平和吉さんは今年103歳になった。

「私は軍隊に入って日本のために軍の幹部になるつもりだったんです。」こう語る、平和吉さん。父親の願いも時代には抗えず、戦争の渦に巻き込まれていった。

二十歳の頃、金沢を拠点とする「歩兵第七連隊」に入隊、満州に向かった。満州で一番大変だったことを尋ねると平和吉さんは「それはね、話にならん苦しみ。草の露をなめてしのぐほどの
幾多の技をそこで習得する親にもみせられんほどの苦しみであった。」と、満州での厳しい訓練の日々を振り返る。

しかしその過酷な訓練に耐え抜いた平和吉さんの肺に病気が見つかり、やむなく帰国。

「友人はフィリピンで爆死してしまって、私は一緒にいれば一緒にだったかもしれないが病気にかかったために(日本へ)移動した。それがこの命の岐路であると私は思っております。」

愛媛で終戦を迎えた平和吉さん。復員し珠洲に戻ると、ふるさとでは理不尽な出迎えを受けたという。

「郷土の人たちはなぜ負けたのかということを追及していました。兵隊にいたということを
知らされるといじめにあったんです。石を投げつけられたこともあった。それが終戦の記憶に残る。負けて悔しい。けれど仕方がない。」

俳句に込める記憶と希望

戦後は農家の生活を支えるため農協で働き、2人の子供に恵まれた平和吉さん。老後の趣味にと82歳で始めた俳句が、今の生きがいだ。

「北風すさび 磯の藻屑を さらひけり」

「青春を思い出すことが楽しみ。だから年老いても若々しい調子で句を作っています。今でも寝しなに一句考えて寝ています。また目が覚めれば苦楽を思って生きていく。これが俳句の原動力。私は思います。」

2年前にはこれまでに詠んだ190あまりの句をおさめた句集「能登の好日」も制作した。

その中には戦争の記憶も記されている。

「頬赤き 戦友二十歳で 人柱」

「すっぽりと 夏草囲む 忠魂碑」

「戦なき 御代を言祝ぐ 弥生晴れ」

「戦争はダメだと。新しい平和の誓いを迎えたい。そんな希望」と平和吉さんは語る。

戦後80年が経った今。世界中では今もなお戦争が起きている。そんな今を平和吉さんはこう語る。

「土地を開いていくために、当然、戦争は起こしうることになる。政府の思想を共有しなければ成立しない。だから民衆がどうあれ、そのトップが平和へ向かうための手段を相互に考えていく必要がある。これが最も大事なことだろう。」

父親がつけてくれた名前にある「平和」を考え続けた平和吉さん。103年の人生を振り返りながら静かに語る。

「友人の戦死や悲しい体験、そして今まで生きたこの喜びがあって、老いて困っておりますけれども、最後まで頑張る気持ちで生きております。」

これからも自分の人生を記す俳句を詠み続けると言う平和吉さん。その穏やかな笑顔の奥には、平和への祈りと、次の世代への警鐘が込められているようだった。

(石川テレビ)

石川テレビ
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