佐賀県内の炭鉱が全て閉山して、2023年で50年。このうち多久市の炭鉱は昭和36年(1961年)、県内の産出量の45%を占めるほど成長を遂げていた。かつて炭鉱で育った男性は「炭鉱の町は家族だった」と当時を振り返る。

炭鉱は“都市の縮図” 最盛期は1万人も

一ノ瀬一磨さん:
大きい“都市の縮図”ですね。労働組合、マーケット、劇場、楽しむところもあったから、一つの炭鉱で都市を形成するという感じですよね

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今から70年以上前のこと。多久市で大手に引けを取らないほど栄えた、県内企業の炭鉱があった。それが「小城炭鉱」。

最盛期の1950年には3,000人もの従業員が働き、その家族を含む約1万人が生活していたと言われている。

一ノ瀬一磨さん:
炭鉱の中では、皆さん坑内から上がってくると全身、真っ黒くなって上がってくる。「わあ、すごかなーこのおじさんたちよく頑張っているな」と。坑内は命と背中合わせですから

一ノ瀬一磨さん
一ノ瀬一磨さん

一ノ瀬一磨さん(78)は、機械の整備士として働いていた父と共に、2歳の頃から小城炭鉱で生活していた。

一ノ瀬一磨さん:
左端に平和町炭住と書かれている、その平和町に昭和27年くらいまで住んでいた

“炭住”で雑魚寝…そして運動会

1962年の小城炭鉱には、石炭を採る坑口は2カ所あった。

その周りには映画館やマーケットのほか従業員や家族が住む炭鉱住宅、いわゆる“炭住”の長屋が立ち並ぶ。一ノ瀬さんもこの平和町で生活する1人だった。

――長屋はどんな生活?

一ノ瀬一磨さん:
雑魚寝しているようなものですね。そんなに広い部屋じゃないから。いろんな所から炭鉱に集まってきますので、沖縄とか鹿児島の方とか…鹿児島弁でしゃべると何言っているか分からんけど、そういういろんな所からお見えになった方がいて、日が暮れるまで遊んでいた

当時、水道やトイレのほか浴場が共用で、子どもにとっては限られた遊び場でもあった。

一ノ瀬一磨さん:
大人が炭鉱から上がってくると真っ黒に汚れて、入られるとお湯が汚れるものですから、その前に遊びに行くんですよ。泳いだりなんかして遊んでよく怒られていましたね「お前たちは何しよっか!」って

また、ボタ山のふもとにあるグラウンドでは9月になると炭鉱で働く従業員や家族総出の恒例イベントがあったという。

一ノ瀬一磨さん:
“運動会”がありまして…炭住町内対抗ですので相当な人数が集まって楽しんでいましたね。家族でいろんな所に遊びに行けないので一大イベント、一番楽しいことだった

高校生になると、アルバイトとして小城炭鉱で働き始めた一ノ瀬さん。当時の場所に案内してもらった。

一ノ瀬一磨さん:
私が仕事したところです。家が続いているところは石炭の積み込み場があった。石炭にならないものをボタという。石くれが、そのくずが炭車の中に蓄積していく。それをかき出すアルバイトだった。まあ肉体労働ですけどね。ツルハシとかき板使って掃除するんですけど、1人つらい仕事なんですよね

一ノ瀬さんは、高校に通いながら週5日働いた。当時、アルバイト生は坑内に立ち入れませんでしたが、月給は2万円以下。いまの20万円以下にあたる高給だった。

一ノ瀬一磨さん:
父が肺結核になったから私が家計の手助けをせないかん。貧しかったなという感じ。生活そのものが戦後間もなくで、大して裕福ではなかった

「炭鉱の町そのものが…家族かなあ」

戦後の佐賀の復興に大きく貢献した小城炭鉱。

その後エネルギー革命という大きな時代の流れに飲み込まれ、1962年に22年の役目を終えて、閉山した。

一ノ瀬一磨さん:
炭鉱の町そのものが…そうねえ…家族かなあ。炭鉱の町自体が大きな家族だと考える。私としては炭鉱の思い出はきついこともあったけど、懐かしい思い出

(サガテレビ)

サガテレビ
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