2022年6月、子どもたちに対馬丸の悲劇を知ってもらおうと、最も多くの児童が犠牲となった那覇市の小学校に「対馬丸平和のモニュメント」が建立され、除幕式が行われた。数少ない対馬丸の生存者の上原清さんが、モニュメントに託す思いを語った。
「今でも夢に見る…苦しかっただろうと」
2022年7月、対馬丸の悲劇を子どもたちに継承するとともに、平和について考えてほしいと那覇市の垣花小学校に建立された「対馬丸 平和のモニュメント」
この記事の画像(16枚)78年前、垣花小学校の前身・垣花国民学校では101人の児童が犠牲になった。
垣花小学校6年生 比嘉凛奈さん:
みんなで勉強したり遊んだり、楽しいことがたくさんできたことでしょう。この度、設置された平和のモニュメントをきっかけに、花っ子のみんなが平和について考え、一人一人が平和の輪を広げていきたいと思います
この日、学校には対馬丸の悲劇を生き延びた上原清さんの姿もあった。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
ウチナーグチを使ったら、怒られたんだよ。そんな時代だったから、僕は今日はお互いウチナーグチを使って怒られたねって、琉歌を一つやろうかなと思って書いてきた
当時小学4年生だった上原さんは、戦時中使うことが許されなかったウチナーグチで、かつての級友たちに語りかけた。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
対馬丸とともに、あなたたちは沈んだ。今でも夢に見る、苦しかっただろうと
「シーちゃんは白い靴を履いたまま沈んでいった 」
太平洋戦争末期の1944年8月22日、政府の疎開命令により、児童やお年寄り、女性など約1800人を乗せて九州に向かっていた対馬丸は、アメリカ軍の魚雷攻撃で沈没。約1500人が犠牲となった。
海に投げ出された上原さんはイカダに必死にしがみつきながら、6日間 大海原を漂った後に奄美大島に辿り着いた。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
6日も飲まず食わずで、8月の。水も飲まずに、僕は喉が渇いて、塩水を飲もうかといって(口に)入れたら吐き出して飲めなかったね
上原さんが対馬丸について語る時、脳裏には一人の少女の姿が蘇る。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
シーちゃんっていう、石倉静枝なんだがね。それをもってシーちゃんと言って、とても仲が良かった
幼馴染のシーちゃんは色白で可愛らしい女の子で、上原さんは対馬丸に乗船する前に一緒に新しい靴を買いに行ったことをよく覚えていると言う。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
シーちゃんが選んでこれがいいよとかなんとか言って、そして、その白い靴を履いて2人(対馬丸に)乗った。シーちゃんが、その白い靴を履いたまま沈んだな
対馬丸が沈んでいった時、シーちゃんの姿を見つけられなかった上原さんは、建立されたモニュメントに名前が刻まれているのを見て、改めて胸が締め付けられたと話す。
悲劇を風化させないよう…子どもたちが平和を考えるきっかけに
あの悲劇から2022年に78年を迎えるが、上原さんは時代の経過とともに感じる不安を口にする。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
対馬丸って何だったかなという…小学校の先生でさえも何だったかねと言って。要するに頭の中に対馬丸というものが、78年の間にね、だんだん薄く薄れてきたなと
悲劇を風化させることなく、どう継承するかが大きな課題となる中、母校である垣花小学校に「平和のモニュメント」が建立された意義は大きいと話す。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
戦争はやってはいけないというものを中心にしながらも、平和な社会を作ろうという子供たちの学習の場で非常に大事なモニュメントになった
モニュメントが学校にあることで、子どもたちが平和について日常的に考えるきっかけになってほしいと期待する。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
きっかけって何かないと、それを祈ることもできないさ。ということは、多くの学校、例えば那覇の学校の全部にって、本当はできた方がいいなと思っている
「長く生きて語り継ぐことが自分の使命」
2022年、米寿を迎えた上原さんは現在の思いを琉歌にしたためた。
対馬丸生存者 上原清さん(88):
百歳ゆ願てぃ からた大切に 対馬丸悲劇 語いぶしゃぬ
対馬丸生存者 上原清さん(88):
長く生きて、対馬丸を語るんだという意味が入っている。長く生きないと、もう語ることはできんさ。100歳まで生きる。生きて、しかも対馬丸をみんなの前で語れる人は少ないでしょうね
(Q.いつまでもこうやって対面で喋れるようにいきたいと?)
対馬丸生存者 上原清さん(88):
そうです。100歳のときに、また来てもらったら面白いね
上原さんは数少ない生存者として、対馬丸の記憶を語り継ぐことが自分に任せられた使命だと力強く話していた。
(沖縄テレビ)