操縦席の後ろに爆弾を積んで、上陸を図る敵の船に体当たりする海の特攻兵器、通称「マルレ艇」をご存じだろうか。太平洋戦争中に旧日本陸軍が実戦投入した。
この「マルレ艇」による特攻を志願したものの、出撃することなく終戦の日を迎えた男性が鹿児島市にいる。
男性はなぜ、自ら特攻の道を選択したのだろうか。そして、終戦の日を境に初めて気付いた本心とは?

「俺がいけば日本の態勢を巻き返す」軍国主義の教育

山本清さん:
(旧制)中学生だった。「俺がいけば日本の態勢を巻き返す」そんな感情が出てくるんですよ。軍国主義の教育でしょうね

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戦争中の自身の心境をそう語る、鹿児島市の山本清さん。2022年で95歳。
山本さんが陸軍への入隊を決意したのは、昭和18(1943)年、16歳の時だった。
中学校に来た陸軍の将校が、生徒らに熱弁を振るった。

山本清さん:
将校は「君たち若い者が戦争に参加してくれないと危ない。危機の状態だ」と言った。みんな若いし、愛国の精神を持っていたから、話を聞いて「俺も行こう、俺も行こう」と

工業関係に興味があった山本さんは、陸軍に入隊すると整備教育隊に配属された。

そんなある日、山本さんは兵舎の廊下に張り出された壁新聞に目を留めた。そこにはある設問が書かれていた。
アメリカ兵が上陸の際、日本人の女子供を盾にして進軍してきたら、どう対応するか
壁新聞には、答えも示されていた。
かまわず日本の婦女子を先に撃ち、その後、アメリカ軍を攻撃せよ
明らかに常軌を逸した記述だった。
「問題あり」と見なされたのか、その壁新聞はすぐに撤去されたという。
しかし、山本さんの憤りは消えなかった。

山本清さん:
俺たちは、日本の国民を守るために軍隊に志願したんだ。なんで婦女子を殺してまでアメリカ軍と戦わないといけないのか。俺はそんなことはできないから、できることの方に行こう。そしてできることというのが、志願して特攻隊になって、ボートに乗ってぶつかっていく

「死ぬための訓練」に励む

特攻を志願した山本さんは、「マルレ艇」と呼ばれる特攻用モーターボートの訓練を受けた。

山本清さん:
ベニヤ板。粗末な。小さい船でしょう、エンジンはひとつだけで。簡単に操縦できて、すぐに使えるわけですよ

敵弾を受けたらひとたまりもない小さなモーターボートで、山本さんは「死ぬための訓練」に励み続けた。

そんな精神状態の時に見上げた空は、山本さんの心に強烈な印象を与えた。

山本清さん:
空の青を見るでしょう、寝転んで。空の青さがものすごくきれいなんですよ。絵の具で塗ってできる青じゃないですね。きれいだな、雲もきれいだな、もっと自然を堪能して死にたかったな

山本さんが所属する部隊は訓練を終え、福岡県の海岸に展開した。アメリカ軍の上陸作戦が始まったら、そこから特攻出撃するのだ。
しかし、その1カ月後、ラジオから流れてきたのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という玉音放送だった。

昭和20(1945)年8月15日、終戦。
それまで山本さんは、日本のために死ぬことを当然と考えていた。
しかし、終戦を知った時、自分が無理矢理そう考えようとしていたことに気づいた。

山本清さん:
「負けたんだ、待てよ、命は救われたんだなあ」と。肩の荷がガクンと落ちるというか、今まで無理していたんでしょうね。「肩の荷が落ちるようだったら、(特攻出撃したら)俺は本気で死ねたかな」と反省が出てきて

そして、その日の夜、山本さんは戦争が終わったことを実感する光景を目にした。

山本清さん:
村に電気がいっぱいついているんですよ。これまで夜は灯火管制で灯を消していたから、「おおっ」と思ってね。その灯りが懐かしくてですね

「もっと人間は利口にならないと」

何千万人もの命が失われた第2次世界大戦が終結してから、2022年で77年。
戦争はまだ世界からなくなっていない。

山本清さん:
平和を保っていこうという空気が成功しない限りは、また昔と同じ状況になるんだろうなと思ったら情けない。もっと人間は利口になるというか、ならないと。歯がゆく思いますね

自らが死ぬことで国を守ろうとした18歳の少年は、95歳となった今、怒りを込めて今の世界を見ている。

(鹿児島テレビ)

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