表には沖縄の守礼門が描かれ、裏には「祖国復帰おめでとう」という文字と日の丸が刻印されたメダル。これは、50年前の1972年5月15日に沖縄の本土復帰を祝い、日本政府が県内の小中学生に配る予定だった記念メダルだ。

しかし、実際にはその多くは配られることなく、いつしか「幻のメダル」と呼ばれるようになった。なぜメダルは配られなかったのか、記念メダルから復帰を考える。

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「幻のメダル」を知っている人はいるのか

記者:
復帰記念メダルはご存じですか?

当時小学生だった女性:
自分の記憶の中では覚えていない。親が持っていたかな

記者:
幻のメダルと言われているんですけど…

当時小学生だった男性:
見たことなかったですね

当時中学生だった男性:
色もこんな色?

記者:
もともとこういう色です

当時中学生だった男性:
貰っていないと思う

「復帰記念メダル」はなぜその存在が知られていないのか…。

「基地のない平和な島」を願い…返還を決議

メダルは50年前の復帰当日の朝、日本政府から県内の小中学生、約20万人に配られる予定だった。しかし、現場の教師たちがこれに待ったをかけたのだ。

当時の沖教祖中頭支部書記長 故・有銘政夫さん:
児童生徒を通して、諸手をあげて賛成というようなお祝いムードを作るわけにはいかんと

沖縄戦で多くの教え子を戦地へ送ってしまった反省から、教員たちは「平和教育」に力を注いできた。一方、戦後もアメリカの施政権下にあった沖縄では、少女が兵士に乱暴されて惨殺されたいわゆる「由美子ちゃん事件」や、宮森小学校へのジェット機の墜落など基地から派生する事件事故で多くの子どもたちが犠牲になった。

教職員会が中心的な役割を担った祖国復帰協は「基地のない平和な島」を求めていたが、その思いは打ち砕かれ、沖教祖はメダルの返還を決議するに至った。

当時の沖教祖中頭支部書記長 故・有銘政夫さん:
欺瞞的なものについては拒否せんといかんということで、教師の手を通して教壇から配ることはしないと

回収された復帰記念メダルの行方は?

先島地方や本島の一部の小中学校を除き、ほとんどが回収された復帰記念メダルは今どこにあるのか。実は、那覇市でその一部が展示されているという。

沖縄県立博物館・美術館には、石川青少年の家から寄贈された約950枚のメダルが収蔵されている。銅でできたメダルは500円玉より大きい直径3.2センチで、重さは15グラム。

小中学生に配るはずだったメダル 約950枚を収蔵
小中学生に配るはずだったメダル 約950枚を収蔵

沖縄県立博物館・美術館 学芸員 宮城修さん:
大蔵省の造幣局を通して作られているものなので、それなりに重要なものと考えていいと思います

1999年に博物館に収蔵された当時の箱も見せてくれた。

沖縄県立博物館・美術館 学芸員 宮城修さん:
こちらに津覇小学校、津覇小南上原分校と書かれていますね。当時はメダルと袋が別々に梱包されて送られてきたみたいなんですが、学校のほうで配る前にメダルを入れて配るように、という通知があったので、配る準備はしたんでしょうかね

「復帰を考えるきっかけに」メダルを教材として活用

泊高校 午前部教諭 喜友名秀美さん: 
これを配ってはいけないという先生方がいて、ほとんど配られなかったので「幻のメダル」と呼ばれています

当時の社会情勢を反映したメダルを、復帰教育の教材として活用する教師がいる。泊高校午前部で世界史を教える喜友名秀美教諭だ。

泊高校 午前部教諭 喜友名秀美さん: 
メダルが配られなかったのはなぜ?というのがすごく興味をひいて、そこに引っかかりがあると、より分かりやすいかなと。すごくいい教材だと思います。「祖国復帰おめでとう。1人1枚ずつあげようね」と用意していたが、実際は核抜きではなく基地もたくさん残っている、経済はどうだ本土並じゃないだろう、これは思っていた復帰と違う、なにもめでたくない…ということで配らなかったんです

泊高校 午前部教諭 喜友名秀美さん: 
(当時の先生の)核抜き、本土並みじゃないという思いにはすごく共感しています。今後の沖縄の将来を託す人材に、これをきっかけに何か考え始めるきっかけになっていればいいなと思います

沖縄の本土復帰を盛大に祝おうと作らたメダル。半世紀を経て、今を生きる私たちに「真の復帰とは何か」を問いかけている。

(沖縄テレビ)