800年に及ぶ対馬の海女の歴史を、今も受け継ぐ女性がいる。

彼女はなぜ、潜り続けるのだろうか。対馬にいる最高齢の海女さんは、底抜けに明るい。自然に抗わず、たくましく生きる彼女を通し、家族や自然、人生を問いかけていく。

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フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第25回(2016年)に大賞を受賞したテレビ長崎の「潜れ~潜れ~ 対馬の海女さん物語」を掲載する。

(記事内の情報・数字は放送当時のまま掲載しています)

潜り続けて67年、大好きなのは冬の海

長崎県対馬市は約9割が険しい山林に覆われている。

韓国までの距離は約49.5キロという国境の島だ。かつて大陸との交通の要所として栄え、地理的な背景から国の天然記念物ツシマヤマネコをはじめ、希少な動植物が数多く生息している。

独自の歴史や文化、手つかずの自然は、島の観光資源として広く知られている。しかし、対馬に伝説の海女がいることは地元住民の間でもほとんど知られていない。

真っ白な帽子がとてもチャーミングな女性。彼女は対馬で最高齢の海女、梅野秀子さん。昭和8年生まれの82歳(※取材当時)だ。潜り続けて67年経った彼女が大好きなのは、真冬の海だという。

船を動かしながら「うれしい、ルンルンしている」と胸を高鳴らせる。そして、「82歳でも海に入れるだけで幸せなことはない」と笑顔だ。

世界有数の漁場である玄界灘に囲まれた島の基幹産業は漁業。対馬はサザエの漁獲量が日本一でアワビも全国有数の水揚げを誇る。その一端を担っているのが、ベテラン海女の秀子さんだ。

2015年7月、アワビとサザエ漁の解禁日を迎えたこの日、秀子さんは82歳とは思えない身のこなしで海へ入り、1分以上息を止め、海の底の岩場に潜む獲物を見つける。若い頃は15メートル以上も潜っていたという。

海女に一番必要なのは「勘」だという。岩のように見えても、立派なアワビだということもある。

長年培った勘で身を立ててきた秀子さんは、元気の秘訣は「ご飯を食べて寝て、海に入ること」と話す。その表情はいつも笑顔だ。

海に入れない、「赤い旗」が一番苦手

15歳で海女になった秀子さんは、本当は勉強がしたかったという。

「親から潜れ~、潜れ~って言われて。食べ損ないがないから、潜れ、潜れと言われ稽古しました。母親が海女さんだった」

母親は海女、父親は漁師、家族で海の恵みを受けて生きてきた。十数年前、一緒に漁へ出ていた夫を病気で亡くし、一人暮らし。海女の稼ぎで2人の息子を育て上げ、大学まで行かせた。息子たちは島外で暮らしているため、滅多に帰って来られない。

秀子さんはその大きな手で家族を支え、家も建てた。

「海に入ってよかったと毎日思う。仏さまに“毎日健康に育ててくれて有難う”と必ず言う」

そんな秀子さんの日課は、仏壇に声をかけることと、家の前の波止場で「旗」を確認すること。波が高くて危険な日は漁協が赤い旗を立てて、漁を禁止しているのだ。

その赤い旗が立っていたら、秀子さんも漁に出ることはできない。

「あの旗が一番苦手」

潜ることが何よりの楽しみな彼女は、肩を落とす。そんな日は、幼なじみで海女仲間の愛子さんの自宅へ遊びに行く。

同い年の2人は良きライバルで、15歳の時から同じ海に潜り、競い合いながら、家族を養ってきた。愛子さんは数カ月前に病気を患い手術をしたため、今は潜ることができない。

秀子さんは愛子さんの体調を気遣い、秋になったら泳げると励ましていた。

翌朝、旗が立っていないことを確認し、漁に出た秀子さん。

アワビ・サザエの漁期は夏と冬合わせて4カ月だけ。天候にも左右されるが、操業期限を定めているのは、限りある海の資源を守るためだ。

67年も海に潜ってきた秀子さんは、「海の様子がおかしい」ことを感じていた。最近、思うように漁ができないというのだ。

豊かに見える海だが、サザエやアワビ、魚がエサとする海藻が生えなくなる磯焼けや海水温の上昇、ゴミなどさまざまな要因で海の環境が変化していた。

曲の海女は“ふんどし1枚”で潜った

漁が休みになる8月、秀子さんは車を運転し、70キロ離れた曲(まがり)地区へ向かった。

かつて海女だった姉・美津子さん(90)と曲の盆踊りを見にいくのだ。

対馬の海女文化は800年前、海女発祥の地と言われる福岡県鐘崎の海女が、対馬の曲地区に移り住んだことから始まったといわれる。

15世紀には海女たちが偶然、海で遭難しかけていた対馬の島主・宗氏を助けたことで、そのお礼として特別な権利を海女に与えたと伝わる。室町時代に記された許可書には「曲の海女だけに対馬全域の海女漁を許す」と記されていた。

曲の海女たちは1年中、海の上で暮らし、島を回りながら獲物を求め、真冬でもふんどし1枚で海に潜った。その歴史は戦後まで続いた。

20歳の頃に撮ったという、海に向かってふんどし1枚で堂々と立つ秀子さんのモノクロ写真がある。

「昔はね、ふんどしで対馬全域を潜りよったと。雪の降る日でもね。だけん今でも元気かと」

対馬の海を知る曲の海女は、最盛期には50人以上いたが、今では秀子さんを含めて3人だけとなり、曲の海女の歴史を知る人はほとんどいなくなってしまった。

島で大切に受け継がれてきた伝統、風習、その多くが薄れつつあった。

戦後、漁業制度の改革で曲の海女は、対馬全域で潜ることができなくなった。島中の海を知っていた秀子さんは、豊かな漁場があった佐須奈(さすな)に移り住んだ。

厳しい稽古を積んだからこそ、今は楽

秀子さんには大事にしているものがある。それは18歳の時に、ブリキ屋で作ってもらった昔の水中メガネだ。

それは「曲にも持っている人はおらん」と話すほど、貴重なものだった。

船で暮らし、島を一周していた18歳の頃は、船頭から厳しい指導を受けたと振り返る。

「雪降っとるときも寒いとかなんとか言ったら怒られる。船が船場に着いたら飛び込まないといけなかった。そんな指摘を受けてきましたよ。乗らんかと言われないと船に乗られんかった。厳しかったぁ。厳しい道踏んで来とるけん、今は楽」

秀子さんと孫の勝満さん
秀子さんと孫の勝満さん

お盆には次男とその孫が帰省した。孫は学生相撲で全国優勝を果たすなど実力者だという。

家族みんな、運動神経の良さは秀子さん譲り。息子2人は学生時代、柔道で全国トップクラスの活躍で、日本代表の強化選手に選ばれたこともあった。

そんな2人は高校進学を機に、島を出たが、海女の仕事で子どもと過ごす時間がなかった分、秀子さんはめいっぱい愛情を注いで育ててきた。そして7年ぶりにあった孫も、たくましく成長していた。

しけが続いて海に行けないまま9月は終わり、10月になった。次の漁は12月。網の手入れをしながらも、秀子さんは愛子さんを気にしていた。

愛子さんは病気が再発し、手術のため遠く離れた本土の病院に入院した。

「元気になって帰ってくるじゃろうな」と心配する秀子さん。来る日も来る日も網を繕い、愛子さんのことを思いながら、漁が始まる冬を待った。

生まれ変わっても「海女になりたい」

12月、冬の漁の解禁日。この日は旗もなかったため、「頑張って働くよ」と秀子さんの気分もいつになく良さそうだ。

冬は波が高くなるため、車で行ける磯場で潜る。気温4度の中、潜る前には火を焚いて、10キロの重りを持ち、海へと潜る。3カ月ぶりの海だった。

曲の海女として島中を潜っていた頃は、アワビだけを獲っていた。アワビはサザエの10倍の値が付くためだ。

そんなアワビがたくさん獲れるから、寒くても冬が大好き。「昔は裸やったけ、なお寒かった」と振り返る秀子さんは30歳までふんどし1枚で潜っていた。

1日3合のご飯を必ず食べる秀子さんは、朝6時に起き、夜6時に寝る。長年規則正しい生活をしているのは、潜り続けるためだ。

今は10キロのおもりで腰が曲がり、長年の潜水の影響で耳も遠くなってしまった。岩場では転ばないように用心して歩く。

子どもが巣立った今でも海に入る。それだけで気分がスッとするからだ。しかし、1年近く潜れない時もあったという。

「主人や親を亡くしたときはつらかった。ずっと何日も泣いた」

悲しみのあまり、海に行けなくなったのだ。それでも戻ってきたのは海で生きてきたから。嬉しいことも悲しいことも全部海の中にあった。

何度生まれ変わっても、「海女になりたい」。そう思っているという。

「海は私の宝」だから対馬を離れない

2016年2月に、83歳の誕生日を迎えた秀子さん。

「83歳でも体が顕在やけん、いいちょ思いますよ。私の欠点はしゃべりすぐることです」

対馬に珍しく雪が降ったその日、孫のようにかわいがる隣の家の小学生の女の子と、その友達が誕生日を祝いに来てくれた。

4月、月に1度の健康診断では医師から「ムリしなければ大丈夫」とお墨付きをもらった。

春は箱メガネをして海藻を獲る。テングサやカジメなど、海女さんは四季折々の海藻を大切に獲る。

そんなある日、千葉に住む長男と孫が7年ぶりに島に帰ってきた。

長男は「背中が曲がった」と母親の変化を感じていた。「子のため」が口癖で、どんな厳しい仕事もこなしていた母親。長男は小さくなった母親を心配していた。

滅多に泣くことのない秀子さんだが、息子たちが帰る日は涙がこぼれた。「別れが一番つらい」と涙をぬぐう秀子さん。長男から「千葉に来ないか?」と誘われたが、秀子さんは断ったという。

その日は真っ先に海に向かった。息子の気持ちは理解しているが、対馬から離れたくなかった。どんな時も対馬の海で生きていたからだ。最後まで海女として潜りたいという気持ちが大きかったという。

一つ年を重ねた83歳の誕生日、厳しい自然の中で潜り続けるその理由を、雪の降る大好きな冬に話してくれた。

「海は私の宝。海で生活し、海で子どもも育てました」

何よりも大切な家族を守ってくれたのは海だった。「潜れ、潜れ」と15歳の年に母に言われた言葉を胸に、秀子さんは宝の海に潜り続ける。

「目標は90歳まで潜ること」と元気に話していた秀子さん。2017年9月、いつものように心を躍らせ潜りに行こうと船に乗り込んだところ、突然、息を引き取った。秀子さんは最後の最後まで海女の姿のまま、この世を去った。

現在、孫の勝満さんは大相撲力士になり、大好きな秀子おばあちゃんへの想いを胸に、對馬洋 勝満(つしまなだ まさみつ)という秀子さんの宝だった対馬の海を四股名にして土俵で活躍している。

生まれ変わっても海女になりたいと話していた秀子さんは、今もきっと対馬の海に潜り続けているだろう。

(第25回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品 「潜れ~潜れ~ 対馬の海女さん物語」テレビ長崎) 

テレビ長崎
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