18歳で沖縄戦に動員された渡口彦信さん。渡口さんは、あるウチナーンチュの呼びかけに応じて投降し戦場を生き延びた。今回、その人物とみられる男性が見つかり、77年越しの感謝を伝えるため遺族と面談。戦中戦後を人々のために尽くした男性の物語が浮かび上がった。

2022年2月8日
この記事の画像(16枚)

米軍に包囲され、死を覚悟した時に聞こえた言葉

この日、向かったのは沖縄県伊江村の伊江島。

1945年3月、県立農林学校の卒業目前に18歳で徴兵された渡口さんは、球部隊の高射砲部隊に配属された。

沖縄戦末期の6月、追い詰められた部隊は糸満市米須付近で解散。渡口さんは僅かな食料を手に、仲間の兵士2人と海岸近くの岩場に身を潜めた。

渡口彦信さん:
波打ち際にはいっぱい死体が横になっていました。顔も胴体も膨れてウートートーして(手を合わせて)「ごめんなさい、許してください」とポケットを漁って、死体の…

米軍に包囲され死を覚悟していた、その時聞こえてきたのは。

渡口彦信さん:
わんねーうちなーんちゅです(私は沖縄の人間です)。んじてぃきみそーれ(出てきてください)。ちけーねーびらん(心配いらない)

呼びかけに応じて捕虜になった渡口さんはその後、移送先のハワイで1年半の収容所生活を送り沖縄に戻った。

英語が堪能で戦後の復興に尽力

あの時、うちなーぐちで投降を呼び掛け、命を救ってくれた男性は誰だったのか。手がかりは伊江島出身ということだけだった。

渡口さんの思いに応えようと、有志が5年近く調査を行った結果、その男性が伊江島出身の入江昌治さんとみられることが分かった。戦後76年を経て感謝の思いを伝える。

渡口彦信さん:
あの時、うちなーんちゅの呼びかけが無かったら、自分もあの場で命を失っていたであろう。命を救ってくださった入江昌治さまに感謝を申し上げ、心からご冥福をお祈り申し上げ追悼の言葉と致します

入江さんは戦前、フィリピンで仕事をしていて英語が堪能だった。戦後は村の通訳として働き、60年余り前に亡くなった。

米軍の資料には、糸満市摩文仁付近で投降を呼びかけた中に一般県民がいたとの記録があり、調査にあたったメンバーはこの人物が入江さんだった可能性が高いと結論付けた。

戦争中のことはほとんど語らなかった入江さん。戦後、収容所にいた人々を伊江島に還すにあたって尽力したことが、様々な資料から浮かび上がった。

長女・喜納明美さん:
あなたのお父さんのおかげでフィリピンから帰ってこれたと、お礼を言われたことがある

長男・司さん:
父が戦争、終戦を境に貢献できていたのかなと、ありがたく思います

戦争の記憶に向き合い、慰霊の旅続ける

日系兵士の呼びかけには応じなかった渡口さん。入江さんのうちなーぐちが、生きる希望となった。

渡口彦信さん:
優しく語り掛けるような、だから心がちょっと動いた。入江さんが呼びかけなければ、僕は(ガマを)出なかったでしょう

呼びかけを聞いた県外出身の仲間も、渡口さんに投降をすすめた。

渡口彦信さん:
沖縄の人だから、なんとか沖縄人と言えば寛大、寛容な待遇をやるかもしれない。恐る恐る岩の間から出たら(米兵が)銃を構えて待っていた

その後の光景は、今も脳裏に焼き付いている。

渡口彦信さん:
最後の通告だよと言って、しばらくしてですよ。火炎放射であの(仲間)2人は焼き殺されたんですよ。僕の前で

戦後76年、渡口さんはこれまでに収容先のハワイで亡くなった戦友の慰霊祭や、沖縄で命を落とした元上官の故郷を訪ねるなど、戦争の記憶と向き合って来た。

渡口彦信さん:
あの惨めな戦争を思い出したくない。しかしながら沖縄戦というのを後世に伝えて、また戦争をやっちゃいかんという思いから若い者に伝えて後世に伝えて。僕はあちこち飛び回っている

渡口さんの慰霊の旅は続く。

(沖縄テレビ)

沖縄テレビ
沖縄テレビ
メディア
記事 820