東京五輪キャスターを務める直前の訃報

東京オリンピック・パラリンピック中継でキャスターを務め、人生で一番忙しい日々を過ごした今年の夏。遡ること数カ月、5月に母をがんで亡くしました。

生きていれば今日、10月14日、58歳の誕生日を迎えるはずでした。

母はこれまでに胃がんと乳がんを患い、それぞれ手術と抗がん剤治療を経て寛解。
3年前には腹痛をきっかけに受けた検査で胆のうに影が見つかり、10時間近くの大手術を受け回復、と何度も大病を乗り越えた強い人でした。
150cmちょっとの小柄な身体に秘められた溢れんばかりの生命力に毎度驚きつつ、私と妹と弟、3人の子供を育てあげた母だからどんなことがあっても大丈夫だろうとなぜか安心していたのですよね…。

2015年 フジテレビ入社式で
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新型コロナが猛威を振るい始めたころ届いたメッセージ

新型コロナウィルスが蔓延の兆しを見せ始めていた去年序盤。取材もできず、家で過ごす時間が多くなっていたころ、母から一通のメッセージが届いたときのことを今でもはっきりと覚えています。

「オリンピック、見たかった」

胸騒ぎがしました。

「どうしたの?」嫌な予感にすっと血の気が引いていくのを感じながら、何事もありませんようにと唱え送ったメッセージへの母の返信は「大丈夫よ」のたった一言。
なぜかそれ以上深く聞くこともできず、妹と「母から変なメッセージが来たんだけど」と話す程度で、あまり考えないようにしていたのです。

しかし、嫌な予感は的中していました。

母は、すい臓がんでした。

実は、3年前の大手術で、開腹して初めてすい臓にがんが見つかったそうです。手術でそのがんが取り切れていたのかいなかったのか、今となってはわかりませんが、術後の定期健診でまたすい臓にがんが見つかり、再発という診断が下されました。

その時は「余命半年」。つまり夏までの命だろうと告げられたそうです。
余命宣告は、母が先ほどのメッセージを送ってきた、まさにその日のことでした。

東京五輪を楽しみに

私が2018年にスポーツ番組を担当することになり、東京オリンピック・パラリンピックの中継に携わることが決まってからずっと中継をとても楽しみにしていた母。
私が再発のことを知った時はまだ大会の開催延期が決まる前だったこともあり、なんとか、それはもう、母に見せたいという個人的な思いだけで「どうにか今年開催してほしい」と思うほどでした。主役は私ではなく、アスリートのみなさん。なのに、私の中で、母の生きているうちに大きな仕事をする姿を見てほしいという気持ちが日に日に大きくなっていって——。

もちろんコロナ禍でさまざまな事情を抱えた人がいるのは痛いほどわかっています。私たちだけが辛いのではないと言葉にならないもやもやした思いを心の中に押さえ込みながら、取材もできず、仕事でそれを発散することもできない毎日でした。

新型コロナと抗がん剤治療、面会できない日々

去年春。がん治療に特化した病院へ入院し、抗がん剤治療が始まると、今度はコロナウイルスの影響で母と面会できない日々が続きました。

母は、同じ病室に声が大きい人がいて落ち着かないやら、ご飯が美味しくないからファストフードを差し入れしてくれやら、毎日文句を言いながら早く退院したいと訴えていましたが、正直なことを言うと、面会で会う時間を失ってでも母は入院をしたままの方がいいのでは、と考えていました。抗がん剤治療をしている母にとって、コロナウイルスに感染することは大きなリスクだからです。

通院の途中にどこかで感染したら。
東京からウイルスを持ち込んで、自分が母に感染させてしまったら。
考えると不安で仕方ありませんでした。そして同時に、そんな状況のなか母を守ってくれる病院と医師、看護師のみなさんに感謝してもしきれませんでした。

私自身は、どんなに一瞬の面会だとしても会えるならば、という思いと、万が一のことを考えると今は我慢すべきという考えがせめぎ合い、結局、緊急事態宣言中だったこともあって、福岡への帰省はしばらくしないことに決めました。

ビデオ通話で縮めた心の距離

でも、便利な時代ですよね。ビデオ通話はたくさんしました。母とは電話ですらあまりしない関係性だったので最初は気恥ずかしさしかなかったのに、段々と慣れていくものです。
直接会うのに勝ることはないと思いますが、こうして技術が発展していなければ、母の様子をリアルタイムで伺い知ることも心の距離を縮めることもできなかったので、本当にありがたいことです。

東京五輪を見るまでは死ねない

治療開始から約半年が経った去年10月。
夏までの命と言われていた母は、抗がん剤の影響でさらに痩せながらも、翌年に延期が決まったオリンピック・パラリンピックを見るまでは死ねないと口癖のように話し、まだ元気に過ごしていました。

このころ、仕事を調整して取れた遅い夏休み、緊急事態宣言の狭間ではじめての家族旅行へ行き、家族みんなで妹の結婚式に出席できたこと。これまで生きてきたなかで一番の思い出です。

妹の結婚式で、着物姿の母

父も母も、私と妹と弟、3人の子供を育てるために働きづめで、特に父は家にいた記憶があまりないほどでしたから、我が家に家族旅行をする余裕はありませんでした。そもそも、家族全員が揃って会話をすることもこれまであまりなかったので、旅行となると若干の気恥ずかしさもありながら……きっとこれが最後になるだろうとそれぞれが悟って過ごす家族での時間は、寂しくもとても貴重で。

熊本城に母と妹と

長女の私がウェディングドレス姿を見せることは叶わなかったので、母が元気なうちに、と急いで結婚式の準備をしてくれた妹には心から感謝しています。

ヴェールは母の手作り

進行するがん 迫られた選択

それから5カ月後の今年2月。
がんは胸膜に転移していました。

元々細かった母の体重は30kgちょっとまで減り、お腹は腹水でパンパンに。病院で水を抜いてはまた溜まりを繰り返し、体力は目に見えて無くなっていきました。自力で動くことも少しずつ難しくなり、抗がん剤治療もこれ以上は体力的に厳しいだろうと医師から告げられたあの日。
いよいよ本当に死の瞬間が近い未来に待ち受けていることを強く意識させられ、頭を強く打たれたような気分になりました。

病院での治療が打ち切りとなり、ホスピスに入るか、家族から介護を受けながら自宅で過ごすか、の二択を迫られた私たち。

ホスピスに入れば、コロナウィルスの影響で面会できる時間は一日30分とわずか。いっぽう、自宅で過ごすには、付きっきりの介護と今まで以上のコロナ対策が必要になります。
どちらを選ぶか本当に難しい選択でしたが、母が最期の場所に選んだのは自宅でした。

「大変なことになっちゃったな」死に向かう実感

病院から紹介してもらった社会福祉士さんを通じて、大急ぎで介護ベッドや酸素吸入器、歩行補助器具など一式を手配し、訪問看護の申し込みをする傍ら、あまりに目まぐるしく準備の進んでいくさまを見て「大変なことになっちゃったな」と呟き、ひとり涙を流していた母を今も忘れられません。

それまでは、病院で治療ができていることで、すこしばかり心の平穏を保っていた部分があったのでしょう。それがなくなり、揃いゆく介護器具を見て、本当に自分は死に向かっているのだと感じたのだと思います。

母の心情を思うと悲しくて寂しくて、なんと言葉をかけて良いかわからなかった。ただ「大丈夫、絶対元気になるよ」と、自分でも本当に思っているのかわからない、力ない言葉しか伝えられない自分が無力に感じられました。

突然やってきたその時

そして今年5月。
桜が散り初夏の気配が漂うある日、そのときは突然やってきました。

ちょうど実家に帰っていた朝、母の叫び声で目を覚ますと、明らかにこれまでと様子の違う母の姿が。
モルヒネの200倍の鎮痛効果があると説明された薬もいつものようには効かず、目の前にはただ「痛い、辛い」と訴える母。
在宅緩和ケアに切り替わってから母の介護を付きっきりでしてくれた父と妹ですら、急な変化になす術がなく立ち尽くし、時間ばかりが過ぎていきました。

前日の夜、私の作ったスープを少量ながらも口にし、味に注文を付けるくらいの余裕があったのに……。その時とのあまりの変わりように動揺しつつ、ふいにやってくる嫌な予感を振り払うように、母に声をかけ続けました。

昼前、母は、父と妹と私、そして急いで駆けつけてくれた、期間中一番お世話になった訪問看護師さんに囲まれて亡くなりました。
最期の瞬間は、それまで手足をばたばたさせながら苦しんでいたのが嘘のような、穏やかな時間でした。最後に、ベッドを囲む我々を一人ひとりゆっくりと見つめてまぶたを閉じると、すうっと眠りにつくように亡くなり、本当に死んでしまったのかと信じられなかったほどです。

「まだ孫の顔も見てないやないか!」叫ぶ父と泣きじゃくる妹を横目に、悲しくてどうしようもない反面、何故か穏やかな気持ちの自分に驚きながら、死に向かい、最後まで死を理解しようとしながらもがいて生きてきた母の強さを思い返し、ここまで頑張ってくれてありがとう、やっとゆっくり自由に過ごせるね、と母に伝えたのでした。

コロナさえなければ…心の隙間が埋まらない日々

こうして、約1年の闘病のあいだ死に向かいゆく母の姿を見続け、母が亡くなって半年が過ぎた今。実はまだ現実を受け止められずにいます。

頭では理解しているのに心が拒否している、というのでしょうか。ぽっかりと心に穴が空いてしまったような感じです。骨になった母の姿を見ては、あらためてその穴の深さを知り、毎日埋め方を探しています。

コロナウイルスが蔓延していなければ、母が楽しみにしていたオリンピック・パラリンピックを見せられていたのに。コロナがなければ、もっと会えていたのに。常々海外に行ったみたいと言っていた母を海外旅行へ連れて行けたのに。マスクを着けずに笑う母の顔をたくさん写真におさめられたのに。

コロナのせいで——悔しくてたまらない気持ちは、挙げ出すときりがありません。

でも、失ったものは戻りませんし、それを悔しがりながらずっと下を向いて生きるよりは、母のためにも少しでも光を探して生きていきたいと少しずつ思えるようになってきました。

私にとってその“光”とは、母が、自分が生きようとする姿を通じて何を伝えようとしていたのか考えるということのようです。今はまだ、それがいったい何なのか、母と過ごした日々を思い返しては考え、答えを見つけられずにいますが、いずれ母からのバトンを誰かに渡せたとき、やっと心の穴もふさがっていくのかな。そう思っています。

(フジテレビアナウンサー 宮司愛海)