陛下が語られた「胸がいっぱい」の皇后さま
「天皇陛下からは、皇后さまは胸がいっぱいになったご様子だったと伺っています」
東京五輪の開会式を目前に控えた7月21日、全競技に先駆けて行われたソフトボール日本代表の試合について、天皇皇后両陛下の側近の坂根侍従次長はこのように説明した。
子どもの頃にソフトボールの経験があり、開幕戦が東日本大震災の被災地・福島県で行われる事にも関心を寄せられていたという両陛下。日本代表の活躍を喜ぶと共に、海外勢でいち早く来日し、制約の多い環境で試合に臨んだ対戦相手のオーストラリア代表の健闘も称えられたとのこと。
当日の始球式を務めたのは、幼い頃に被災した地元の中学3年の女子バッテリー。「復興五輪」への思いを込めた、その一投をご覧になった皇后さまについて、陛下は「胸がいっぱいになったご様子だった」と表現されていたとのこと。
陛下の目に映った「胸がいっぱいのご様子」の皇后さま。一体どんな思いが去来したのか、時計の針を45年ほど前に戻してみたいと思う。
この記事の画像(5枚)”推し”は巨人の高田繁選手 ソフトボール部を創設
今から45年前の昭和51年。中学1年生だった皇后さまは、友人たちと共に教師のもとを訪ね、「野球がやりたいんです」と直訴された
野球が大好きで、読売巨人軍のファンだった皇后さま。通っていた中学校から歩いて行ける距離に多摩川河川敷のジャイアンツの練習場があり、休日になると友人と一緒に練習を見に通われていた。
気になる当時の皇后さまのお目当て、今で言う“推し”は俊足、強肩、強打と走攻守を兼ね揃えた高田繁選手だった。友人によると、皇后さまは、いぶし銀の職人タイプの高田選手の写真の切り抜きを下敷きに入れていらしたとのこと。
野球がやりたいという純粋な情熱。ところが、当時皇后さまが通われていた田園調布雙葉学園中学校には野球部もソフトボール部もなかった。
直訴された教師は当初、けがでもしたらと消極的だった。しかし皇后さまと友人たちは毎日のように教員室を訪ね、1年がかりで教師を説得。グラウンドの広さの問題から野球は難しいがソフトボールなら、と同好会としての活動が認められ、部活動に昇格しソフトボール部の創設に至ったのは翌年、中学2年生の頃だった。
念願のソフトボール部での活動が始まったものの、新設のクラブで予算がなく、道具なども自前で揃える必要があった。野球のルールは分かっていてもソフトボールは皆初心者で、本を読んで一からルールを学んだり、ユニホームも無いため、スクールジャージで練習も試合もこなすなど、決して恵まれた環境ではなかった。
それでも、野球への情熱、ソフトボールが上手くなりたいという情熱で、朝練、昼はお弁当を食べたら、すぐ校庭へ出てキャッチボール、放課後も練習へ。ひたむきに取り組む皇后さまの真剣な姿勢に周囲の友人たちも影響を受けていった。
試験前夜でも「プロ野球ニュース」(フジテレビ放映)は欠かさず見られていたそうで、それでいて成績は優秀だった、いつ勉強されていたのだろう、と友人は振り返る。
「オワなら打ってくれる」「スラッガー・マサコ」
肩が強く3番サード。強打が飛んできても冷静にキャッチ。先頭でみんなを引っ張るのではなく、周りから信頼され、行動で示すタイプで、その真剣な姿勢に皆がついて行く。皇后さまはそんなプレーヤーだった。大事な場面で「オワ(皇后さまの当時のニックネーム)なら打ってくれる」という安心感があったという。
初めての対外試合で実力の差を実感し、皇后さまの負けず嫌いに火がついた、と教師は語る。1勝したら念願のユニホームを作ることを目標にしながら、少しでも強くなろうとさらに熱心に練習を重ねるものの、1勝も出来ないまま、中3の夏の「世田谷区ソフトボール大会」を迎えることに。
初めて臨む公式戦は、テストの直前期と重なり、部活の練習は禁止となっていたため、皇后さまは友人らとバッティングセンターで秘密の練習を重ねられた。「せめて一勝したい」その思いと努力が実り、初戦で優勝候補のチームにまさかの大逆転で初勝利を飾ると、その勢いのまま決勝戦まで駒を進め、なんと区大会優勝を成し遂げた
ユニホームがないというコンプレックスも跳ね返し、努力とチームワークでクラブ創設2年目にしてつかみ取った奇跡の優勝。優勝カップを手に、スクールジャージー姿ではじける笑顔を見せられる皇后さま。優勝カップにオレンジジュースを入れて回し飲みもされたという。
高校進学後、外交官の父親の転勤でアメリカ・ボストンに渡ると、現地の高校でもソフトボールに打ち込まれた。地元紙で「スラッガー・マサコが活躍」との記事が掲載されたことも。そして名門の難関、米ハーバード大学へ進学。まさに皇后さま=文武両道のスポーツ少女を示すエピソードと言える。
ソフトボール好きは母から娘へ 「鬼のようなノックを」
ソフトボールへの情熱は、実は長女の愛子さまにも受け継がれていた。愛子さまも中学時代、球技大会でソフトボールに出場。試合に向けて、昼休みや放課後にクラスメートと練習を重ね、帰宅後も毎日のように赤坂御用地でご両親や職員と練習に励まれていた。
陛下とはキャッチボール、皇后さまからはバッティングの指導も受け、まさに家族の総力での猛特訓。努力の甲斐あって、球技大会で愛子さまはショートを守り、ヒットを重ねて打点を挙げ、決勝まで進まれた。そのひたむきさは中学時代の皇后さまの姿と重なり、愛子さまの活躍と努力を我がこととして喜ばれた両陛下のお姿も目に浮かぶ。
さらに、母娘のソフトボールのエピソードには続きが…
球技大会から3カ月後の2016年8月1日。夏休みのさなか、中学3年生の愛子さまはご両親と共に「水の日」の記念式典に出席された。愛子さまにとって、公的な式典に同席されるのは初めてのこと。陛下がライフワークとされている水についての式典では、中学生の水作文コンクールの最優秀賞の表彰も行われ、愛子さまは作品の朗読にも熱心に耳を傾けられていた。
式典後、両陛下と愛子さまは、最優秀賞に選ばれた富山県の中3の女子生徒らと懇談された。愛子さまと女子生徒は同じ学年、しかも女子生徒がソフトボール部に所属していることを知り、皇后さまは自分もソフトボール部員だったこと、愛子さまも球技大会のために一生懸命練習しショートを守ったことなどを明かされたという。ソフトボールという共通の話題で話が弾み、皇后さまは「一緒に鬼のようなノックをしたのよね」と愛子さまの特訓秘話も笑顔で披露された。
赤坂御用地内の砂利敷きのグラウンドで、母娘で取り組まれた「鬼のようなノック」。娘の目標に向かって、共に汗を流された、子育て期の母としての大切な思い出なのかもしれない
陛下は末次選手の大ファン
一方の陛下とソフトボールの縁は、小学生時代に遡る。学習院初等科の5、6年生の頃、陛下はクラブ活動でソフトボールに取り組まれていた。当時は巨人9連覇の黄金期。やはり陛下もプロ野球に熱中され、3番長嶋、4番王に続く“史上最強の5番打者”とも呼ばれた巨人の名外野手、末次利光選手のファンだった。
友人と巨人戦を観戦し、末次選手の満塁ホームランに飛び上がって拍手を送られ、末次選手の背番号38の入ったユニホームを愛用されていたとのこと。ご夫妻揃ってソフトボールに夢中になり、華やかなスター選手よりも、職人タイプの選手のファンだった、という”意外な”共通点が浮かび上がる。
福島の子どもたちへの思い
震災直後から、両陛下は福島県を何度も見舞い、被災した様々な世代の人たちと交流を重ねてこられた。
中でも幼くして震災を経験した将来を担う子どもたちに心を寄せ、小さな子どもと親が安心して遊べる郡山市内の屋内施設や、困難を乗り越え復興を実現していく人材を育てるために開校した広野町の中高一貫校を訪ねたり、若者たちのアイデアで東北の復興を考え、未来を造りあげるためのプロジェクト=OECD東北スクールの生徒たちの活動を見守ってこられた。
あの大震災から10年。今回の五輪の始球式で「復興五輪」への思いを込めて投げたピッチャーは、東京電力福島第一原発の事故後、一時全町避難を強いられた富岡町で4歳で被災した女の子だった。
今回の五輪で掲げられていたのは、東日本大震災から立ち直った姿を世界に伝える「復興五輪」の理念。本来であれば被災地で選手との交流や支援への感謝を伝える機会が実現するはずが、コロナ禍でそうした交流は叶わなくなってしまった。
復興への歩みを長く見守り、被災した人たちに長く心を寄せていく思いを度々言葉にされている両陛下。万全な感染防止対策のもと、五輪に参加するすべてのアスリートが「健康な状態で競技に打ち込み、その姿を通じて、新しい未来への希望の灯火がつながれる大会となることを願います」。陛下は7月22日にIOCのバッハ会長らにこのようなメッセージも伝えられていた。
復興への歩みとともに成長し、中学3年生になった女子生徒が感謝の気持ちを込めてまっすぐにキャッチャーミットに投げ込んだ東京五輪最初の一球を目にし、皇后さまは女子生徒が歩んできた10年の歳月に思いをはせると共に、ソフトボールに打ち込み、奇跡の優勝に歓喜したご自身の中3の夏の思い出や、ひたむきにノックに取り組まれた中3の愛娘の姿も去来し、胸を熱くされていたのかもしれない。
無観客開催により、競技会場での観戦は叶わない中、お住まいの赤坂御所から各競技の選手の健闘に声援を送られている両陛下のお姿や、被災地への思いや部活の思い出、娘への愛情で「胸がいっぱい」なご様子の皇后さまを傍らで見守られている陛下の温かなまなざしも感じられた。
(フジテレビ社会部 宮内庁担当:宮﨑千歳)