元慰安婦が日本政府に損害賠償を求めた裁判で、ソウル中央地裁は4月21日、元慰安婦らの訴えを却下した。日本は主権国家であり、他国である韓国の裁判では被告にはならないという国際慣習法「主権免除」が適用されるというのが主な理由だ。1月8日には同じソウル中央地裁で、日本政府に対し元慰安婦に損害賠償の支払いを命じる判決が出ているが、今回の判決は全く正反対の結論となった。

どうしてこのような結論になったのか?判決文を詳細に分析してみる。なお今回言い渡された判決は裁判に慣れていない人でも分かるような平易な表現が使われており、論旨も極めて明快なものだった。

また主権免除を主張する被告の日本政府は、この訴訟に参加していない。そのため審理では日本政府が一切主張することはなかったが、裁判官は主権免除について判断するために、独自に職権で韓国外務省や慰安婦問題を所管する女性家族省から情報収集し、海外の法律や条約、判例についても検討していた。判決は、法廷でなされた原告の主張一つ一つについて、認めるべきかを判断する形式となっている。

この訴訟で重要視されていたのは、元慰安婦が受けた被害の事実認定ではなく、主権免除が認められるか否かだったので、原告の主張も判決もその1点に絞られている。

原告の元慰安婦李容洙(イヨンス)さんは判決を最後まで聞く事無く退廷した
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原告の主張

まずは原告である元慰安婦側の主張をまとめる。

1)国際慣習法によれば国家の主権行為は他の国家の裁判権から免除されることが原則(主権免除)だが、現在の国際法や国際慣例では、国家の私法的行為(※商業行為など)には主権免除は適用されない。日本政府の行為は強行規範(※人身売買や民族浄化の禁止など、国際法上絶対に破ってはいけないこと)に違反した反人道的なもので、主権行為とは言えない。日本の裁判所の判決によると、慰安所を経営していた民間業者との共同不法行為なので、主権行為ではなく、私法的行為である商業行為にあたる。

2)武力紛争中の地域で外国の軍隊や国家機関が行った行為は主権免除の対象になるとの国際司法裁判所(ICJ)の判例があるが、当時の朝鮮半島は日本と交戦状態になく武力紛争中ではない。

3)この訴訟は元慰安婦の最後の救済手段なので却下してはならない。2015年の日韓合意は政治的合意に過ぎず、被害者の意思もまともに反映していない。行政の裁量権を逸脱していて、救済手段にはならない

1)「強行規範に反する反人道的行為」「私法的行為」は主権免除の対象外か?

裁判官はまず、被告である日本政府の行為について「慰安婦を選抜する被告の行為は韓国の領土内で行われ、慰安所において慰安婦として被告に所属する軍人らと、意思に反して性関係を持つようにしたことは、国際人権法などに違反する行為としてこの事件被害者に対する深刻な人権侵害」と定義した。さらに「外国の主権行為は主権免除を認めるが、非主権行為に対しては主権免除を認めない」という韓国最高裁の判例を基礎とした。

その上で、「強行規範に反しているから主権行為ではなく、主権免除は適用されない」との原告の主張について、「主権行為というのは私法的行為の反対の概念であり、違法かどうか倫理的にどうかという要素は関係が無い」として、「ある国家の主権行為が強行規範に違反したとしても、その行為は違法な主権行為になるだけであり、主権行為でなくなるわけではない」と一蹴した。

さらに「原告は進んで被告の行為が商業的行為だと主張するが、被告の行為は被告軍隊の要請により当時朝鮮半島を管轄した朝鮮総督府が行政組織を利用して慰安婦を選び出し、被告軍隊が駐留した地域の慰安所に配置させ性関係を強要したとの事なので、このような行為は公権力の行使としての主権的行為であって、これを商業的行為と見ることはできない」と、こちらも認めなかった。

2)当時の朝鮮半島は武力紛争中と言えるのか

この争点はそもそもICJが下した判決が基礎になっている。第二次大戦中、ナチスドイツにより強制労働させられたイタリア人男性がドイツ政府に損害賠償を求めた訴訟で、イタリアの裁判所はドイツ政府に賠償支払いを命じたが、ドイツがICJに提訴。ICJはドイツの主権免除を認めて、ドイツが勝訴した。

このICJ判決の多数意見には「武力紛争中の地域での外国の軍隊や国家機関による行為は主権免除の対象になる」との内容がある。そのため原告側は、「日本とは交戦しておらず、当時の朝鮮半島は武力紛争中の地域ではないから主権免除の対象にならない」と主張していたのだ。

これについて今回の判決は、ICJ判決がなぜ武力紛争中の軍隊の行為は主権免除の対象になると判断したかに注目し、「武力紛争が発生すれば、平時国際法でなく戦時国際法が適用されるため」と説明している。ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約など戦時国際法が適用されれば、武力紛争中の加害国による損害賠償の問題は、被害者による個別訴訟ではなく、国同士の包括的な協定によって解決される。だから個別の訴訟で戦争相手国を訴え、主権免除の例外として損害賠償を支払わせるのは認められない。つまり主権免除は認められるとの考え方だ。

また戦時国際法で保護される民間人の範囲は、現実的に武力紛争が起きている場所の居住者だけではなく、いわゆる「銃後の民」も含まれる。慰安婦が集められた当時、日本は日中戦争や太平洋戦争の最中であり、今回の判決は「原告の元慰安婦は、戦時国際法が保護する民間人に含まれる」と認定した。従って、当時の朝鮮半島は武力紛争中ではなかったが、日本政府の主権免除は適用されると判断したのだ。つまり、元慰安婦は今回のような個別訴訟ではなく、国家間の一括協定で問題を解決されるべきということだ。

3)最後の救済手段なのか?日韓合意の評価は?

他に救済手段が無いから、主権免除を適用せずに元慰安婦を救済すべきという原告側の主張に対して、判決は「主権免除を認める事で得られる利益」と「主権免除を認める事で侵害される元慰安婦の利益」とを比較することで、答えを導いた。

まず得られる利益として、国際法や条約の順守を明記した韓国憲法に反する事が無くなる点を挙げた。上記の説明度通り、今回の訴訟で日本政府に主権免除を適用しないのは国際慣習法に反すると言えるので、そうした「国際法違反」をしないで済むというのだ。また「日本に賠償を命じる判決を出す事、及びその後の強制執行の過程で、日本との外交関係の衝突が避けられない」と指摘した。つまり、主権免除を認めれば、こうした衝突を防ぐことが出来るという利益があるというのだ。

逆に侵害される元慰安婦の利益は何なのか?当然訴訟により救済される機会が失われる事だ。だが判決は、別の救済措置があると指摘した。それは2015年12月に日韓両政府が取り交わした日韓合意だ。この合意で当時の安倍首相が日本国総理大臣として謝罪し、日本政府は韓国政府が作った財団に10億円を供出。財団が元慰安婦への支援金を支給するという事業が実際に行われた。判決はこの日韓合意について「日本政府としての元慰安婦の救済」と評価。さらに「死亡した元慰安婦を含む240人のうち、41.3%に当たる99人に現金支援が行われた」「合意当時に生存していた慰安婦のうち相当数が財団から現金を受領したと見るのが合理的」と救済措置が一定程度行き渡っていたと評価した。

また元慰安婦側は「日韓合意には自分たちの意思が反映されていない」と主張していたが、判決は「交渉過程で元慰安婦または、被害者団体の意見を取りまとめる手順を踏んだ」「合意が慰安婦被害者の意志に明確に反するとは断定できない」と指摘した。その上で、「原告を含む慰安婦被害者のための大まかな救済手段が用意された事を否定することは困難」と断じた。

憲法を順守できる上に日本との衝突も避けられるという利益と、訴訟では救済されないが別の救済手段が存在する不利益を比較した結果、主権免除を認める利益に軍配を上げたのだ。

さらに、国際慣習法である主権免除を適用しない「例外」を誰がどう決めるのかについて、「新たな例外を認める場合、韓国の国益に及ぼす有利・不利を冷静に考慮して細かく決めなければならない。基本的に行政府と立法府の政策決定が先になされなければならない事項であり、裁判所が例外を認めるのは適切ではない」とした。裁判所が独自の判断で「慰安婦問題は主権免除の例外」と決めた1月判決とは対照的だ。

敗訴後に厳しい表情を見せる慰安婦支援団体「正義記憶連帯」のイ・ナヨン理事長

「主文、この事件の訴えを却下する」

裁判長は上記の論点の判断を説明した上で「被害者は日本により多くの苦痛を味わい、韓国が内外に働きかけた成果は被害の回復に不十分だったと考える。裁判所としては日韓合意で被害者の損害賠償請求問題が全て解決されたとは見ないが、現時点で国際慣習法や韓国最高裁の判例により、日本に対して損害賠償を請求するのは許容できない」と結論づけた。

今回の判決は、人権を重視し国際法や条約との整合性について強引な論理を展開して日本政府に賠償支払いを命じた1月の判決とは対極にある。国際法や条約を重視し、その成り立ちや意味を紐解きながら、主権免除を適用すべきかの判断を積み重ねていた。また2015年の日韓合意の評価にかなりの分量を割いているのも大きな特徴だ。合意は「不十分」とは言いながら、「日本政府による救済だ」と明確に認定し、当時の韓国政府の対応についても「行政の裁量権を逸脱したとは言えない」と判断していた。合意を実質的に骨抜きにした文在寅政権とは一線を画す認識を示している。

判決公判開廷からおよそ50分後、裁判長は最後にこう述べた。「主文、原告の訴えを却下する」。法廷には原告の1人で元慰安婦のイ・ヨンス氏が来ていたが、読み上げ途中で敗訴を悟ったのか、主文を聞くこと無く法廷を後にしていた。

【執筆:FNNソウル支局長 渡邊康弘】