東日本大震災による原発事故で福島県から愛媛県に避難した家族がいる。
あの震災から10年。農業でふるさと福島と愛媛を繋ぐ生活は、新たな一歩を踏み出した。

愛媛・松前町で暮らす渡部寛志さん42歳。
東日本大震災による福島第一原発事故の後、福島・南相馬市から愛媛に避難してから11日で10年を迎えた。

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南相馬市から避難・渡部寛志さん:
もともと震災前に福島で「つながり」があった人たちを中心にミカンを販売している

渡部さんは愛媛に避難した後、伊予市などでミカン畑を借りて、かんきつを栽培している。

2011年3月11日に発生した東日本大震災。地震や津波が1万5000人を超える命を奪った。
そして、原発事故。放射性物質の放出で、多くの住民が避難を余儀なくされた。

10年前、32歳だった渡部さんも故郷を追われた1人。
原発から13kmの場所に住んでいた渡部さんは強制避難の対象となり、大学時代を過ごした愛媛に家族で避難してきた。

南相馬市から避難・渡部寛志さん:
最大の理由は子どもたちがいるからですよね、一番怖いのは原発ですから

いつか故郷に帰る日のために…。
避難した愛媛でミカンづくりを覚え、毎年、地元・福島にそのミカンを届けて販売。
そこには何とか福島とのつながりを持ち続けようとする姿があった。

避難して10年…福島と愛媛をつなぐ農業

あれから10年、当時2歳だった次女・明理さんは12歳になり、3月に小学校を卒業する。
この10年で南相馬市の避難指示は解除され、2年前からは福島で米作りも再開した。
それでも、渡部さんは愛媛での避難生活を続け、福島には田植えと収穫期の1年に3カ月だけ戻る生活をしている。

南相馬市から避難・渡部寛志さん:
帰るか帰らないか悩んだけどやっぱりまだ原発の状況が不安だし、(放射性物質への)不安が拭えないから完全に帰還をするというわけにはいかないというような心境が続いてるわけで、愛媛を選ぶか福島選ぶか、どっちかにしなかったのは、自分自身にとっては、今のところいい方に働いてるかなと思ってる

しかし、10年の間に福島に戻りたい気持ちと原発事故からの不安が拭えない気持ちから家族はそれぞれの選択をし、渡部さんは今、次女と2人で愛媛で暮らしている。
3月4日、松前町の自宅で収穫したミカンを箱詰めする作業が行われていた。

南相馬市から避難・渡部寛志さん:
今月は4種類のミカンがあるので1箱に詰めて。「いろいろ定期便」って言って売っているんですけど

渡部さんが作ったイヨカンや甘平など、愛媛から福島への定期便だ。
渡部さんは避難後「えひめ311」というNPO法人を立ち上げた。

「現地はまだ震災の過程」

この日は愛媛大学の学生たちにオンラインで自身の被災体験を伝えた。

参加者:
福島が復興したといえるというのは、どのような状況だと思う?

南相馬市から避難・渡部寛志さん:
実は現地の住民はまだまだ震災の過程、原子力災害の過程にあるだけで終わったことではない。とにかく現地に行ってもらいたいなと

震災当時小学6年生だった参加者:
津波の様子がすごく印象に残っています。私に何ができるんだろうと改めて考える機会となりました

震災から10年を迎えた2021年、渡部さんは故郷への思いを胸に新たなスタートを切ることを決めた。

南相馬市から避難・渡部寛志さん:
9年経って10年目に本格的に農業経営を改めていこうと動き出している状態です

3月11日「合同会社トピカ農産」を設立した。
会社名に入っている「トピカ」はギリシャ語で「場所」を意味している。
これは愛媛と福島、2つの場所で農業を続けていくことの決意。

南相馬市から避難・渡部寛志さん:
住んでいた所から離れて、今まで生活していた場所であったり、仕事にしていた農業とかが、どれだけ自分にとって大事なものだったのか、かけがえのないものだったのか、あの「場所」がどれだけ大事な場所だったのか気付かさせられた

震災により、かけがえのない場所で過ごす時間を失った渡部さん。
故郷・福島への思いを持ち続けながら、2021年も愛媛で10年目の春を迎える。

(テレビ愛媛)

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