「沖縄建築」と聞くと、首里城や守礼門といった木造建築から、一般住宅に広く使われているコンクリート建築などを思い浮かべる人も多いと思う。
戦前から戦中戦後と、沖縄建築の歴史をつないだ1人の建築家・仲座久雄さんの足跡を辿った。
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太平洋戦争末期の沖縄戦は、この島の全てを変えてしまった。
時代のうねりの中で、建築を通して、沖縄の復興・発展に尽力してきた仲座久雄さん。
出生の地・中城村の歴史資料図書館では、その功績を紹介する展示会が開かれている。
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建築技術「キカクヤー(ツーバイフォー)」考案
沖縄戦で生き残った住民の多くが米軍の収容所に入れられる事になったが、収容所内に用意された住居は劣悪な環境だったという。
戦後、沖縄を統治していた米軍が迅速な住宅建設に向けて白羽の矢を立てたのが、本土で建築を学んだ仲座さんだった。
仲座さんは、設計を統一・規格化した「キカクヤー」を考案。
「キカクヤー」は、専門的な技術を持たなくても建てられる設計となっていた。
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中城村護佐丸歴史資料図書館・澤岻大佑学芸員:
壁材は骨組みの状態で運ばれて、壁の材料がない場合はテントを代用したり、屋根も同様でこちらで藁葺きになっていますけれども、場合によってはここにテントを張ったりして、活用できるものはどんどん活用して、迅速な建設に努めていくものだった
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「キカクヤー」は、終戦の翌年からの4年間で約75,000戸が建設された。住民総出、24時間体制で行われ、多い時は一日に50棟完成させたと記録されている。
建設に携わった大工・宮城信安さん(故人):
みんな復興復興で、みんなあっちこっちの市町村に家を作りに行った。食べ物と衣服が1日の手間(賃)だった
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「キカクヤー」の建築工法は、2インチ×4インチの角材を使って設計されたもので、いつしか住民からは「ツーバイフォー」と呼ばれていた。
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一方、そのデザインは戦前の沖縄に多かった茅葺き屋根を模した形となっていた。
仲座さんの設計した「キカクヤー」は、さながら「アメリカ世ー(アメリカ時代)の沖縄建築」とも呼べるものだった。
異文化が共存できる設計。仲座さんの建築思想の源流は、戦前に行った事業にあった。
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琉球王朝時代に建造された首里城の守礼門は、戦前の1933年に国宝に指定。1936年の修復作業では、仲座さんは工事主任を務めた。
ーー守礼門の特徴は?
中城村護佐丸歴史資料図書館・濱口寿夫館長:
一番の特徴は、いろいろな国の技術が用いられているという事。門のつくり自体は中国式の楼門の形式。屋根を支えている木を組んで軒を支えている、ここの技術は日本本土の技術。そして上に載っている瓦は琉球の赤瓦。中国・日本・琉球と、いろんな地域の技術が混然一体となっている
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つまり守礼門は中国様式のつくりに日本の組木技術、琉球伝統の赤瓦が用いられた“異文化が共存する建築物”。
沖縄戦で失われた守礼門は、1958年に仲座さんの手で復元された。
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中城村護佐丸歴史資料図書館・濱口寿夫館長:
戦前の姿というのは、仲座さんはずっと見てきてますからね。戦争でそれがほとんどなくなったに等しいですから。戦前国宝であったものが戦争でほぼすべてなくなってしまったというのは、相当彼にとっては大きなショックだったし、戦後早い時期に復元していこうという考えに至ったんだなと想像します
仲座さんは戦後幾度となく本土に渡り、沖縄の戦火を免れた文化財に関する資料の収集に努めた。
現在、われわれが目にする崇元寺石門や園比屋武御嶽などといった文化財も仲座さんの手により復元されたもの。
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沖縄にマッチした「花ブロック」考案
「沖縄は常緑の島で、小石積みは美しく調和する」と生前語っていた仲座さん。
米軍統治の影響でコンクリート建築が急速に普及する中、仲座さんは「石積み」に代わる沖縄独特の建築資材「花ブロック」を考案した。
ブロックに紋様をあしらった「花ブロック」は頑丈で台風に強く、日差しを遮り、風を通す、沖縄の気候にマッチした資材として全県に広まった。
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文化を姿かたちとして捉えたものが建築であるとすれば、それは琉球から戦世(戦争の時代)、そして現代へと連綿と続いている。
戦禍を凌ぎ、今につないだ仲座さんの建築への情熱は今に受け継がれている。
(沖縄テレビ)