旧ソ連構成国のアゼルバイジャンとアルメニアの係争地、ナゴルノカラバフ。2020年9月に再燃した武力紛争では1カ月半にわたって戦闘が続き、5600人超が死亡。11月にロシアの仲介で停戦が成立した。民族的に近い兄弟国トルコの軍事支援を受け、領土の多くを奪還したアゼルバイジャン側の勝利だった。

われわれは2021年2月下旬、アゼルバイジャン政府が欧州を中心とする外国メディアを募集して実施した取材ツアーに参加し、停戦から3カ月余りの現地を取材した。

未承認国家「ナゴルノカラバフ共和国」

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日本ではあまりなじみのないナゴルノカラバフだが、かつてアゼルバイジャン領だったこの地域ではソ連末期、多数を占めるアルメニア住民と少数派アゼルバイジャン人との対立が激化し、1991年のソ連崩壊後には全面戦争となった。アルメニアから支援されたアルメニア人勢力が同年「ナゴルノカラバフ共和国」の独立を宣言。

94年にアルメニア側の勝利で停戦するまで、3万人を超える死者が出たとされる。ちなみにナゴルノカラバフ共和国は、日本を含むほとんどの国から国家として認められていない。

アゼルバイジャン側は、今回の取材ツアーを29年前のある出来事に合わせて設定した。多くのアゼルバイジャン人が犠牲になった「ホジャリ虐殺事件」だ。

ホジャリ虐殺事件 

この痛ましい事件は今から29年前の1992年2月25日から26日、ナゴルノカラバフにあるホジャリの町で起きた。アゼルバイジャン政府によると、アルメニア軍がホジャリを大規模攻撃して占領し住民を強制的に追放。その際、多くの子供や女性を含む613人を殺害したとされる。

山を越えて逃げる住民にも攻撃を繰り返したほか、攻撃を避けられても寒さに耐えられず凍死する人も続出したという。当時の犠牲者を撮影した映像を見たが、その殺害の残忍さは筆舌に尽くしがたいものがあった。

避難するホジャリ住民 1992年2月(アゼルバイジャン政府提供)
避難するホジャリ住民 1992年2月(アゼルバイジャン政府提供)

われわれは事件発生と同じ日付の2月25日、ホジャリ近郊を訪れた。気温は氷点下、ダウンジャケットを着ていても底冷えするほど寒かった。当時、着の身着のまま、はだしで逃げる住民の恐怖とつらさは察するに余りあった。29年ぶりに現地を訪れた元住民は、当時の様子を次のように振り返った。

アクバル・リュストモフさん(74):
「あの晩は雪が降っていて手足が凍える中、ホジャリの住民はみんな必死に山を越えて逃げたんだ。男は子供や女性を背負って逃げた。逃げる時も狙撃された。アルメニア軍には人間性が全く感じられなかった。戦争前、アルメニア人は隣人であり友人だったのに、あんなに恐ろしいことができる人たちだとは思ってもみなかった」

元アゼルバイジャン兵士 アクバル・リュストモフさん(74)
元アゼルバイジャン兵士 アクバル・リュストモフさん(74)

アゼルバイジャン軍兵士だったリュストモフさんは、子供や女性を背負って運ぶために何往復もしたという。山を眺めながら語る彼は、30年近くたった今でも、当時の恐怖とアルメニア側への憎悪を隠さなかった。

コーカサスのヒロシマ

ホジャリ住民の多くが山を越えて逃げたのが、隣町のアグダム、今回の紛争でアゼルバイジャンが奪還した地域のひとつだ。アルメニア軍は当時アグダムにも侵攻し多数の死傷者を出した。中心部にあるイスラム教の礼拝所のモスクを訪れそのミナレット(塔)に上ってみると、360度見渡す限り廃墟だった。その破壊規模は予想をはるかに超えていた。アゼルバイジャンでは「コーカサスのヒロシマ」と呼ばれている。

「コーカサスのヒロシマ」と呼ばれるアグダム。まるでゴーストタウン。
「コーカサスのヒロシマ」と呼ばれるアグダム。まるでゴーストタウン。

ナゴルノカラバフ南部のこの地域は90年代の武力紛争でアルメニアに占領されたものの、そのまま緩衝地帯として放置された。崩れた石造りの建物が辺り一帯に広がる様子に、まるで何千年も前の古代遺跡を眺めているような錯覚を覚えた。われわれはこのモスクで、逃げる途中に娘を亡くしたという女性に出会った。

メラハト・アリイェヴァさん(63):
「慌てて家を飛び出したので、手ぶらではだしだった。頭にスカーフを巻く余裕もなく、みんな大慌てでアグダムに向かったわ。凍えるほどに寒かった。逃げる途中に攻撃が始まり、撃たれて目が飛び出た人もいて地獄のようだった」

8歳の娘を失ったメラハト・アリイェヴァさん(63)
8歳の娘を失ったメラハト・アリイェヴァさん(63)

「8歳の娘と手を繋いで逃げている途中、攻撃が始まった。自分が撃たれて死んでも娘は助かって欲しいとの一心で娘の上に覆いかぶさったけれど、娘は助からなかった。遺体はアグダムのこのモスクのそばに埋葬したけれど、すぐに私もここを避難しなければならなかった。今日は約30年ぶりにお墓参りに来たけれど、その墓はもうなくなっていて見つからない…」

娘は母親の胸の中で亡くなった
娘は母親の胸の中で亡くなった

抱き抱えて守ったにも関わらず最愛の娘を失い、墓参りさえかなわない。母と妹の墓を探しに来たという別の女性にも出会ったが、同じく墓は見つからず目に涙を浮かべていた。

周りは地雷だらけで、除去作業には10年以上かかるという。自由に探し回ることもできない。約30年ぶりに奪還された故郷の荒れ果てた姿を目の当たりにし、彼女たちに悲しみが癒える日はくるのだろうか。

ラチン回廊を越えて

われわれはアゼルバイジャンがアルメニアから奪還した地域のいくつかを取材したが、中でも印象的だったのは、西部ラチン地区だ。ナゴルノカラバフの中心都市ステパナケルトとアルメニア本土を結ぶ「ラチン回廊」は停戦後、ロシアの平和維持部隊の管理下に置かれている。

ロシア軍の検問所から取材現場まではこのラチン回廊をまたぐ必要があり、ここだけでも往復5時間かかる行程だ。軍用の大型トラックに乗り換え、ロシア兵が同行した。

ロシア軍の管理下にあるラチン回廊の検問所。随所にロシア国旗がはためいている。
ロシア軍の管理下にあるラチン回廊の検問所。随所にロシア国旗がはためいている。

山岳地帯の未舗装の道はまさしく悪路で、激しく何度も尻が宙に浮いた。取材が許された場所で目にしたのは、2020年9月の紛争勃発までアルメニア人が住んでいた住居。屋根は剥がされ、窓ガラスなどは全て持ち去られていた。後から来たアゼルバイジャン人が住めないよう、住居に火をつけて退去する住民もいたという。

屋根や窓が取り外された住居
屋根や窓が取り外された住居

さらに、辺り一面に伐採して間もない巨木の切り株が目立った。家具などに利用できる高価なクルミの木だ。同行したアゼルバイジャン当局者は「アルメニア住民は、金目になるものは根こそぎ持って行った」と説明した。

クルミの木の切り株が辺り一面に
クルミの木の切り株が辺り一面に

今回の取材ツアーはアゼルバイジャン側が主催したもので、ホジャリ虐殺事件をはじめ、国際社会にアゼルバイジャンの立場をアピールするのが狙いなのは間違いない。一方、アルメニア側にも言い分があるはずで、ぜひ機会があれば取材したい。いずれにしても、紛争の犠牲となっているのは昔も今もナゴルノカラバフの住民であることは明らかだ。

取材を終え、週末に首都バクーに戻ると、町並みは整然としていて行き交う人々にも笑顔が見られ、家族連れも実に多かった。ナゴルノカラバフで見た「灰色」の世界とのギャップに、同じ国なのかと正直戸惑った。

首都バクーの週末は家族連れで賑わっていた
首都バクーの週末は家族連れで賑わっていた

「敗戦」のアルメニアで募る不満

ちょうどナゴルノカラバフを取材中、アルメニア本国で軍がパシニャン首相の辞任を要求し、混乱が広がっているとのニュースが入った。アルメニアにとっては事実上の敗戦となったことで、国内でも不満が相当高まっている。今もアルメニア住民が多数残るナゴルノカラバフの帰属問題を含め、結局のところ根本的な紛争解決はなんらなされていないのが実情だ。展開しているロシア平和維持部隊が撤退すれば、戦闘が再燃することもあるかもしれない。

支援に乗り出す日本政府

日本政府も2月16日、避難民らの支援目的で480万ドル(約5億円)の緊急無償資金協力を行うと発表した。具体的には、国連機関などを通じてアゼルバイジャンに120万ドル、アルメニアに360万ドルを支援するとしている。茂木外相は記者会見で、日本の支援が「軍事衝突後の両国間における人道状況の改善に役立ち、話合いなどの機運が高まることを期待したい」と述べた。

実際、ナゴルノカラバフで取材中、アゼルバイジャン政府当局者から「日本には大変感謝をしている」と告げられた。こうした支援を続けていくことは非常に重要だ。

インタビューした元住民らが語ったように、もともとは隣人同士、友人同士だったにも関わらず、紛争を機に何十年にもわたり憎しみ合うようになってしまった、アゼルバイジャンとアルメニア。長期的な問題解決の糸口は見えない中、国際社会が放置せず中立的な仲介を目指していく努力が求められている。

【執筆:FNNイスタンブール支局長 清水康彦】

清水康彦
清水康彦

国際取材部デスク。報道局社会部、経済部、ニューヨーク支局、イスタンブール支局長などを経て、2022年8月から現職。