「“ふるさと”静岡の子どもたちを守りたい…」

そう話すのは取材当時、大学院生だった中川優芽さんだ。

彼女が研究の場に選んだのは、東日本大震災の被災地・岩手県釜石市。“釜石の奇跡”として注目された防災教育を研究し、釜石小学校の「下校時避難訓練」に着目した。

津波から子どもの命を守った訓練を、ふるさとでも実施したいと奔走。

「釜石と静岡、2つのフィールドを持っていることが私の強み。防災についてお互いに学び合える環境を作りたい」と話す中川さんの、2年に及ぶ活動に迫った。

(全2回、#2はこちら

釜石の“防災教育”の成果

岩手県の沿岸南部。製鉄とラグビーの街として知られる釜石市。

2011年3月11日、マグニチュード9.0の強い揺れで発生した大津波は、釜石の中心部にまで達し、大きな被害を出した。

学校の校舎は、小学校2校と中学校1校が津波で全壊した。

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当時休んでいた子どもなど、市内では5人の小中学生が犠牲に。しかし一方で、約3000人の児童生徒は避難することができた。

震災のあと“釜石の奇跡”(現在は、“釜石の出来事”と表現)とともに注目された写真がある。特に被害の大きかった鵜住居地区で、住民が撮影した写真だ。

鵜住居小学校と釜石東中学校にいた約600人の小中学生が、迫りくる津波を背に高台へ逃げる様子が写されている。

“奇跡”と呼ばれた事例は、それだけではない。

短縮授業のため、地震発生前に下校していた釜石小学校の当時の全校児童184人の多くは、高台のある学校ではなく、自宅周辺や商店街などのちに津波が襲った地域にいた。

しかし大人から避難の指示を受けることなく、自らの判断で安全な高台を目指し、難を逃れたという。

子どもたちがこうした行動を取れた理由は、震災前から津波を想定した防災訓練に力を注いでいたから。その成果が子どもたちの避難行動として現れたのだ。

教師を辞めて釜石に来たワケ

2018年11月、釜石小学校で命の授業が行われていた。

この小学校では、毎月すべての学年で災害や避難行動について学ぶ「防災授業」をしている。自分の命を自分で守れるようにするためだ。

特に年に1度の「いのちの授業参観日」では、子どもたちの取り組みを知ってもらうため、保護者も参加している。

この授業の様子を見守っていたのは、静岡出身で、取材当時は慶應義塾大学の大学院生だった中川さん。この地で防災教育を研究している。

「静岡県は南海トラフ地震で大きな被害が予想されています。釜石市の教訓を学んで、子どもたちの命が助かるようになればと思って、釜石に来ました」

釜石に来る前の1年間、中川さんは地元の小学校で教師をしていた。勤めていた学校で防災の授業を担当したが、自らの力不足を痛感したと話す。

「子どもから質問をされたときに『正しいのかな?』と自分でも不安なまま答えていて。このままだと、目の前にいる子どもたちを助けられないかもと思い、もう一度学びなおそうと思いました」

いつか来ると予想される南海トラフ地震。

思い悩んだ末、中川さんは教職を辞め、釜石で教訓と防災教育について研究をするという決断を下し、釜石市にある震災後に被災者が暮らしていた仮設住宅の空き部屋で生活しながら研究をしていた。

季節は冬。

「寒いですね。静岡は年間を通して氷点下になることはないので、今はすごく寒い」と語る。

学びの場に釜石を選んだ理由は、震災当時に高校生だった中川さんがボランティアとして訪れた場所でもあったから。その後、大学を卒業するまで何度も足を運び、支援活動を続けてきた。

そのとき耳にしたのは、「自分たちと同じ経験をしてほしくない」という被災者の思いだった。

釜石で学びたいという気持ちを後押ししたのは、慶應義塾大学の地域おこし研究員(慶応義塾大学SFC研究所)という制度だった。

大学が自治体や企業と連携し、大学院生が地域社会の中でより実践的な研究をするという取り組み。1年で教師を辞め、大学院へ入学した中川さんは、そのまま地域おこし研究員に任命された。

任期は2年。2018年の春から釜石で暮らしながら調査と研究を進める。

その成果を地域に還元するという期待もされている。

「釜石に住んで得た学びをしっかりと南海トラフ地震に備える静岡で生かすことが私の使命です」と中川さんは力強く語っていた。

実際にその場に行って体感

2018年12月、中川さんが立っていたのは根浜海岸。海沿いにある旅館の裏側は、あの日、迫りくる津波から逃れるため、多くの人が必死に斜面を駆け上った場所だ。

「同じ場所に立つのはすごく大事。外から来た人も、実際に経験していないけどリアルに感じることが大事だといつも思います」

その場で中川さんは当時の映像を確認し、課題を挙げていく。

海沿いを歩く中川さんは「海」に対する思いについてこう語った。

「海はすごく身近でした。地元の清水や焼津に行ったりしていて、海は近い存在。正直言うと、釜石の方がキレイ。この町の人は海の恵みを知りながら、海の怖さも知っている。そこから学ばなきゃいけないことはたくさんある」

被災地に住んでいるからこそ、できる研究もあった。

2019年2月。この日は、帰省中の大学生と一緒に復興が進む津波の浸水区域を訪れた。

震災当時、釜石小学校5年生だった佐久間栄己(はるき)さんは、自宅で揺れを感じた後、弟と高台の公園へと避難した。

「とにかく逃げることしか頭になかった」と当時を振り返りながら、その高台へと2人で歩いていく。

あの日、あの時、子どもたちはどのようにして助かったのか。

中川さんは「これは大変だ…」と息があがりながらも高台へと登り、自分の目と足で確かめた。

震災の翌年に釜石小学校が発行した記録集「いきいき生きる」には、佐久間さんを含め、68人の児童が自らの避難行動や体験記などを書き記した。

佐久間さんは、「避難訓練でもここ(高台の公園)か、近所の神社だった。指示がなくてもこの公園には逃げていた」と当時を振り返る。

中川さんはこの記録集を読み込み、当時小学生だった13人に聞き取りを行い、この学校で実施していた「下校時避難訓練」に着目。

そして、釜石の子どもたちの命を守ることにつながる「『下校時避難訓練』をふるさとで実施したい」という熱い思いが中川さんを突き動かしていく。

後編では、「下校時避難訓練」を静岡で行うために奔走する中川さんの活動を追っていく。

【#2】「下校時避難訓練」を実現したい。命を守る大切さを学んだ女性が釜石と静岡の懸け橋になる

(第29回ドキュメンタリー大賞「防災の架け橋~釜石の教訓をふるさと静岡へ~」前編)