地雷原から世界へ~カンボジア・タサエン村に育つ「平和の種」
EBCライブニュースは、今年20年を迎えた愛媛県砥部町の元自衛官 高山 良二さんのカンボジアでの地雷処理活動を現地で継続的に取材し、お伝えしている。
今回は、村人の自立を第一に考える高山さんの復興への取り組みや“地雷処理の原点”に立ち戻る18年ぶりの再会などに密着した。
村の人口は1.5倍、スマホを手にした村人も
カンボジア・バッタンバン州にあるタサエンは、タイとの国境付近の村だ。
久保田 夏菜アナウンサー:
「私がこの村を最初に訪れたのは、15年前。今はきれいになっているこの道路は、以前は赤土でしたし、立派な家が建ちならんでいますが、高床式でした」
高山さんが活動を始めた20年前に比べ、村の物価は約2倍になり、4,000人だった村の人口は6,000人にまで増えた。
スマホを手にした村人の姿や、電動バイクに乗る様子など、久保田アナにとっても当時は想像できなかった光景だ。
日本からの寄付金で建てられた幼稚園には、180人の子供たちが通い、母国語のクメール語などを学んでいる。
かつて、子供たちは学校などに行かず、仕事をする親の代わりに、年下のきょうだいの面倒をみることが普通だった。
そんなカンボジアでも、学びへの意識が少しずつ変わってきたようだ。

ハーブの一種『シトロネラ』は「アロマオイル」に加工される
畑一面に広がっているのは、ハーブの一種『シトロネラ』だ。
現地取材をした8月は、まさに収穫の時期を迎えていた。
収穫されたシトロネラは、まず工場へ運ばれ、窯で加熱されハーブオイルが抽出される。
オイルは2週間ほど寝かせて水分と分離させ、「アロマオイル」などに加工される。
このハーブオイル作りについて、砥部町の元自衛官 高山 良二さんは「安全になった土地で作物を作り、加工し製品にする。世界にカンボジアにすごいもんがあるぞと思ってもらえる。世界と肩を並べられる製品をカンボジア人は作れるんですよ」と胸を張る。

農作物を原料とした蒸留酒が世界のコンペティションで入賞
高山さんは20年間、現地で通訳を務めてもらっているソックミエンさんと共同で、『クマエ蒸留』という会社を立ち上げた。
キャッサバ芋やサトウキビなどの農作物を原料とした蒸留酒を、村人とともにゼロから作り上げたのだ。
18年前には、窯が1つしかない小さな工場だったが、今や生産量は年間3万リットルに。10種類以上の酒を製造し、世界から高い評価も受けている。
しかも2023年から4年連続で、国際的な酒のコンペティションで入賞していて、今年はサトウキビで作ったラム酒が、ついに念願の金賞を受賞した。
ソックミエン社長:
「今年、ゴールドとった!結構うれしかった!村民たちのつくった、お米、サトウキビ、マンゴー、バナナとか全部買ってきて、世界に出したり、日本に出したり、カンボジア国内に出したりして、カンボジア経済が良くなることは間違いない」
試飲した久保田アナも、甘いラム酒に「飲みやすい」と太鼓判。「甘みはすっきり、鼻に抜ける香りは華やか」だそうだ。
酒造りを始めて18年。
村の復興を願って生まれた酒は、世界に認められるまでになった。

高山さんは現地の人にも大人気
しかし、高山さんは金賞受賞を手放しで喜ばない。
「地雷・不発弾処理をやりながら、地域の復興支援活動をやって最終的に平和構築を内外に啓発啓蒙するというのが、うちの目的。その1つの手段として、ここを訪れてもらう人が増えてくれるきっかけになれば」と、さらにその先を見つめている。
徐々に拡大してきた『地域復興』の活動が、ここで生きることを選ぶしかなかった村人の暮らしと、未来を守っている。
そんな高山さんを、村人は大好きだ。
「お父さんみたいで大好き。学校ができ、たくさんの子供たちが勉強できるようになった。村もきれいになって、いろいろなことが発展しました」
「高山さんは、村の発展の代表者、だから村の人は高山さんのことを絶対に忘れない」
「ター(年長者の敬称)、病気にならないで」
しかし復興が進む村を再び不安が襲った。
去年の夏、隣国タイと土地の領有権を争って、軍事衝突が起きたのだ。
国境付近で空爆や銃撃戦が発生し、一時避難生活を余儀なくされた村人の中には、収入がなくなり、車を売って生活した村人もいた。
村に被害はなかったが、物流や人の往来はなくなり、村人の生活に今も暗い影を落としている。

愛媛から活動をずっと見守る人がいる
愛媛県砥部町の自宅で、帰国していた高山さんを訪ねた。
妻の里枝さんの「あと何年できるか」尋ねたのに対し、高山さんは「5年、10年、15年、20年」と、まだまだ頑張るアピール。
これに対し、里枝さんは「5年できたら御の字やわ」とぴしゃりと言い、高山さんはずっこけた。
これが高山家の日常だ。
高山さんがカンボジアに渡って20年、里枝さんは愛媛から夫の活動をずっと見守っている。
年に3、4回愛媛に戻り、砥部町の自宅で過ごしながら、各地で講演活動などを行っている高山さん。
夫がカンボジアに渡ると決めたその日から、里枝さんは一度も高山さんを止めたことはないという。
里枝さん:
「したいことをする人だから、もう私には制御できない。」
高山さん:
「わはは!制御不能か!うまいこというな」
里枝さん:
「制御不能だから。心配したら身が持たないから、何かがあったらその時に、感じればいいという感じ」
夫へのエールを求めると、少し照れながら「今まで通りやってくださいってことです」とだけ答えてくれた。

“忘れられない大事故”あの時の赤ちゃんと再会
高山さんがこの地を離れられなくなった理由のひとつ。
それが20年前、地雷の処理中に起きた大事故だ。
7人の隊員が命を落とした。
その中のひとり、モウンマーチンさんには、当時まだ生後8カ月だった赤ちゃんがいた。
テレビ愛媛が当時取材した番組には、高山さんがその赤ちゃんを抱く映像が残っている。
「この子は亡くなった母のようにたくましい子になる」「二度と事故を起こさないことが供養」と話していた高山さん。
高山さんは、8月のこの日、マーチンさんの娘シエムマイマイさんと、18年ぶりに再会できることになった。
喜びの一方で、20年前の事故を思うと複雑な気持ちも。
いつも明るい高山さんが、緊張を隠せない。
そして、ついにマイマイさんと再会した。
高山さん:
「モウンマーチンに会ってるような錯覚を起こしとる。もう1つは、赤ちゃんにそのままあってるような錯覚を起こしとる、、頭の中は複雑」
彼女は、現在21歳。
首都プノンペンの大学に通いながら、会計の勉強をしている。
母親の記憶は写真の中の姿だけというシエムマイマイさんに、高山さんは母親マーチンさんが当時どんな活動をしていたのか伝えた。
マイマイさん:
「先に亡くなることがわかっていればやらせたくなかったけど、私はまだ小さかった。でもお母さんが選んだ国のための仕事だとわかっています」

「平和の種」は、この村で確かに育っている
事故から20年。
犠牲になった7人のことを考えなかった日はないという高山さん。
ただ、あの日抱いた小さな命が成長した姿を見て、高山さんは悔やむことをやめ、遺族のこれからを見守ろうと誓った。
「ここで休むわけにはいかん、次のステージに向けやろうと。しかし、カンボジアに帰ったらまたマイマイに会えるし、楽しみが増えたかな」と、高山さんは満面の笑顔だ。
地雷を取り除くことから始まった、タサエン村での活動を振り返り、「あっという間ですよ。まばたき2、3回したら20年経ってましたよ。前を向いて進むのが、いいも悪いも私の特性みたいなんで」と話す。
79歳になった今も、高山さんは「現場」を大切にしている。
高山さん:
「いくら願ったって絶対に平和にはならない。やっぱり現実を見ながら、どうしたら戦争のない社会ができるかっていうのを考えないと。現場におるというのは、それが大きいんですよ」
地雷を取り除くだけではなく、村人が自らの力で暮らしていける未来を作る。
あの日、タサエンにまいた「平和の種」は、この村で確かに育っている。


