石川県の奥能登地域にある4つの公立病院を統合して整備される新病院。地域医療の持続可能性を担う拠点として期待される一方、県は先日、この新病院で分娩、つまり出産を扱わない方針を決定した。背景には、過去の医療事故や深刻な医師不足という現実がある。「母子の安全」を最優先とする医療側と、「地元で産みたい」と願う住民側。双方の思いが交錯する中、下された苦渋の決断の経緯と、地域が直面する課題を取材した。
新病院の整備に向けた検討会「出産はできないのか?」
8月24日、石川県庁で奥能登の能登空港近くに整備する新病院に向けた検討会が開かれた。焦点となったのは、奥能登4市町が強く要望する「出産」が出来るかどうかだ。
山野之義 県知事:
大きな問題となっている産科・分娩については母子の安全・安心を第一にどのような体制をとることができるのか。
珠洲市 泉谷満寿裕市長:
分娩が可能な新病院の整備は、大きな希望であります。
能登町 吉田義法町長:
新病院に分娩機能を持たせていただきたいという気持ちは変えることはできません。諦めることはできません。
奥能登4つの市長や町長が、山野知事に強く要望してきたのは、能登空港近くに整備予定の新病院で、妊婦が出産できる環境を整えることだった。しかし、検討会で示された結論は、現時点では新病院での分娩は行わないというものだった。山野知事は、「今の状態で奥能登におきまして分娩は課題が多いので、まずは『ワンホスピタル体制の構築』を目指すこととしていきたい」と述べた。
なぜ“分娩なし”なのか?背景にある「ワンホスピタル構想」
この決定に、住民からは落胆と不安の声が上がる。珠洲市に住む80代の女性は「若い人たちはかわいそうだと思います」と話し、輪島市の60代の女性は「急に産気づいたりしたときに(一番近くて)七尾ですか。そこまで走らなくちゃいけないので不安だし」と表情を曇らせる。珠洲市の20代の女性も「みんな金沢に避難して、そっちで住んでいると言ってるので、こっちで若い人たちが出産できると結構違うんじゃないかな」と、地域の将来を憂う。
おととしの能登半島地震をきっかけに、奥能登地域から出産可能な病院はなくなった。現在、奥能登の妊婦は七尾市から南の医療施設で出産するしかない状況が続いている。国や県は、長時間かけて通院する妊婦に対し、交通費や出産前の宿泊費などを補助しているが、家族と離れての出産は妊婦にとって大きな負担だ。
七尾市にある恵寿総合病院の新井隆成医師は「心配だから(入院に)入ってきてくれる方は多いんですけど、だけど病院に分娩のために入れるということを喜んで入ってくる人は見たことがないですね」と実情を語る。
県が今年5月に開いた検討会では、複数の産科医や助産師、手術に対応する麻酔科医など医療従事者の確保が難しいとの現状から、「ワンホスピタル構想」がシメされた。これは、妊婦検診や産後のケアは新病院で行うものの、分娩そのものはこれまで通り七尾市や金沢市内の病院で行うというものだ。
この提案が妥当かどうか、議論の行方は専門家による分科会へと移った。

「母子の安全が最優先」過去の医療事故が与えた影響
分科会では、公立病院に医師を派遣している大学や県立中央病院の医療関係者から「母子の安全が最優先」との意見が繰り返された。県立中央病院の岡田俊英院長は、「何よりも安全な分娩というのは、私はとても大事にさせていただきたい」と述べ、金沢大学の安彦郁教授も「どうしても安全は譲れないと考えています」と強調した。さらに金沢医科大学の髙倉正博教授も「安全を確保しながら、やっていけるようにしながら全体として能登の妊婦さんが安心できる体制を築いていただけたらなと思っています。」と述べる。
背景にあるのは2021年6月に輪島病院で起きた医療事故だ。担当した産科医の誤った診療により、赤ちゃんが仮死状態で生まれ、翌日死亡した。当時、奥能登地域で分娩を扱う産科医は、この医師一人しかおらず、たった一人で妊婦の急変に対応しなければならないため大きな負担がかかっていた。
輪島市の坂口市長は「こうした状況は尋常ではないという認識はありまして。本来であれば改善しなければならない状況だと思っています」と、体制の脆弱さを認める。
医療技術の進歩により、新生児の死亡率は劇的に低下した。1980年には国内で約7800人の新生児が亡くなっていたが、2024年には10分の1以下の約600人にまで減少している。新生児1000人あたりの死亡率も1980年には4.9人で約200人に1人が亡くなっていたが、2024年には0.9人となっている。

こうした中で、七尾市内の病院で産科を持つ恵寿総合病院の神野正博理事長は、現代社会の出産に対する意識の変化を指摘する。「今の人たちはお産で死産になるとかお母さんが具合が悪くなるということはあり得ないし、それは医療事故だ、医療訴訟になってくるわけですよね。医療安全をちゃんとやってくださいということを言われるならば、やはりそれだけの人員設備を投入しなければいけないんですよ」
「年間100件では医師は来ない」厳しい現実
輪島病院での医療事故を受けて石川県は、病院や市、町、大学関係者で出産前後の医療体制を考える「赤ちゃん協議会」を設置。その結果、県と金沢大学などが協力し、産科医が複数いる体制を取るようにしたが、それも長くは続かなかった。
分科会では、医師確保の難しさについて、さらに踏み込んだ意見が出された。奥能登4市町で構成される能登北部医療圏の分娩数は、2018年には180件あったものの、出生数とともに減少し、能登半島地震が発生した2024年にはゼロとなった。出生数も140人まで落ち込んでいる。一方で、金沢市などを含む石川中央医療圏には4829件の分娩が集中している。
公立穴水総合病院の島中公志院長は「(奥能登での分娩が)年間100例で、高度な技術を持つ産科の先生が来るんだろうかと。(3日に1回しか分娩がなくて)優秀な先生を呼び込めるだろうか」と疑問を呈する。金沢大学の安彦教授も「(奥能登で)今の100件の分娩で複数の医師を派遣するというのは、どう考えても現状、国にお願いしてもおそらくそこに手を挙げてくれる産婦人科医は難しいんじゃないか」と述べる。医師にとって、症例数が少ない環境は技術や知識の維持が難しく、「医師はずっと研鑽を積み続けていないと分娩をとる腕とか知識もどんどん落ちていきます。昔と違って、教授が行けと言って行く世界じゃないので。何人の患者を救えるかということに生きがいを持ってやっているので。」と安彦教授は説明する。
その結果、分科会は年間の分娩数が少ない奥能登に、複数の専門医を揃えた分娩チームを備えるのは困難だとして「ワンホスピタル体制」が妥当であると結論付けた。


「可能性は閉ざさない」分娩室の設置と住民のホンネ
大詰めを迎えた検討会。珠洲市の泉谷市長は「分娩が可能な環境整備に向けて進めていくということで理解してよろしいですか?」と念を押したが、検討会の谷内江昭宏座長は「分娩可能な産婦人科の体制を整備すると書き込むことは今の時点では、医療の安全性の観点から、それはやってはいけないことだと私自身は思います」と釘を刺した。
それでも泉谷市長は、「ハード的には可能な産婦人科を設置するということは間違いないですか?」と食い下がると谷内江座長は、「ハードは分娩室を整備すると。将来環境が整えばそれを使う。それが無ければ永遠に分娩ができないわけですから。それを整備しておくと理解していただきたい。」と応えた。
山野知事は「まずはワンホスピタル体制の構築を目指す」「分娩の可能性を探り続けていく努力も続けて行かなければならない」「体制が整った場合に備えて新病院に分娩室を設ける」という3点を結論として示した。将来、環境が整えば使えるように、ハード面として分娩室だけは整備するというものだ。
奥能登の新病院に分娩室を設置することにはなったが…
しかし、この「可能性」という言葉に、住民は冷ややかだ。輪島市の60代女性は「分娩室があっても機能しないのであれば何の意味もない」と断じ、珠洲市の60代男性は「いずれというのは。それはちょっと時間稼ぎかな」と穿った見方をする。
冒頭の20代の女性は、こうも話す。「結局、可能性だと絶対というわけじゃないから。もしかしたらできる、もしかしたらできないだと、確定した安心は得られないかもしれない」。埼玉出身だという彼女に、もし自身が出産するとなった場合どうするか尋ねると、迷わずこう答えた。「もちろん埼玉に帰りますね。そういう感じだと帰らざるをえない。」
分娩を実現するには分娩数を増やさなければならないが、それは人口減少が急速に進む奥能登にとっては非常に高いハードルだ。谷内江座長は「可能性を閉ざさないという言い方でしかないかなと思います。非常にハードルが高いし、それを医療者側だけに責任を預けるのは間違っているだろうと思います」と述べ、人口を増やす努力とセットで考えるべき問題だと指摘する。
山野知事は、「色んな環境を作っていくなかで、あくまでも可能性を探っていくということです。それが6年後7年後に完成するであろう新病院のタイミングに間に合うかどうかというのは今の段階では分かりませんけども、そのために最大限の努力をしていくということです。」泉谷市長は「工夫の仕方によって、汗のかきかたによって私は(分娩が)可能になると思っています。分娩が可能な新たな病院の整備、これは復興への希望となりますので、皆さん希望を持って待ち望まれると思います。」と前を向く。
しかし、その道のりは険しい。専門家からは、急な体調悪化に備えた救急搬送体制の整備や、入院中の上の子の預け先といった保育の問題など、開院を待たずに今から住民の安心・安全を支える体制を構築すべきだとの声も上がっている。全国の約6割の自治体で分娩ができる医療機関がないという調査結果もある。奥能登が直面するこの問題は、日本の多くの地域が抱える課題の縮図と言えるのかもしれない。

(石川テレビ・9月2日放送)
