終戦から81年となる2026年。
大分県宇佐市の市民団体は旧日本軍が撮影した戦時中の映像を公開した。大分市の女性はこの映像を初めて目にし、そこに映った父に思いをはせている。
さらに女性のもとに父に関する新たな発見の知らせが届いた。
豊の国宇佐市塾が1943年撮影された出撃前の搭乗員たちの映像を公開
「大酒飲みだった。でも、とても優しい実直な父だった」
こう話すのは、大分市に住む堀端優子さん(72)。
8月4日、親族たちと墓参りに訪れ、故人が好きだった麦焼酎を墓に供え、静かに手を合わせていた。
墓に眠るのは2002年に82歳でこの世を去った父・松浪清さん。戦時中は旧日本海軍航空隊の偵察員だった。
当時の松浪さんの姿が1943年に旧日本海軍が撮影した映像に映されていた。
映像は現在のパプアニューギニアにあったブイン航空基地で撮影されたもので、出撃を前にして並ぶ搭乗員たちや飛び立つ爆撃機の様子などがとらえられていた。
2026年5月、アメリカから戦時中の映像を取り寄せ分析している宇佐市の豊の国宇佐市塾がこの映像を公開した。
墜落した旧日本海軍の機体からアメリカ軍が回収したフィルムに記録されていたもので、分析した豊の国宇佐市塾の織田祐輔さんも「珍しい」と話す。

時期や場所特定のきっかけは旧日本海軍航空隊の偵察員の手記
今回、撮影時期や場所を特定できたきっかけが松浪さんが戦後に書いた手記だった。そこには映像を撮影し戦死した搭乗員についての記述があった。
『命令一下、出で発つは』(著:松浪 清 光人社)
「アイモ(=カメラ)をだいたまま壮烈な自爆戦死をとげたのだ。一掬の涙を禁じ得ない」
宇佐市塾の活動により、堀端さんは初めて戦時中の父の映像を目にすることができたのだ。
墓参りをした堀端さんは「映像を見てから、毎晩父に『よくやってたね』とか話しかけている。きょうもさっき、父に『ありがとう』と言った」と述べた。

映像を見たひ孫は「おじいちゃんが生き残ってくれたおかげで今の僕たちがある」
堀端さんと一緒に岡山県に住む姪とその子供たちも墓参りに訪れた。松浪さんの孫とひ孫にあたる。
堀端さんは、出撃を前にした搭乗員たちが並ぶ映像を親族に見せながら「これがおじいちゃん。ちょっと痩せ気味。無事に帰って来たってすごい」などと説明した。
映像を見た松浪さんのひ孫たちは「おじいちゃんが生き残ってくれたおかげで、今の僕たちがあるので感謝しかない」「1日1日を大切にしたいと感じた」と感慨深い様子で話していた。

戦時中に使用していたとみられる『航空時計』が神社で見つかる
8日、堀端さんは大分市の県護国神社へ。
面会したのは、県護国神社で戦争関連の所蔵品の整理や調査を行っている三ノ宮栄一さんと亀田雅弘さんだ。
「いいですか?ありがとうございます」と二人にお礼を言いがら堀端さんが手にしたのは父の「航空時計」。神社で見つかった。
偵察員だった松浪さんはこれで時間を計り、航空機の位置の計算などを行っていたと考えられるという。
松浪さんの手記にも時計についての記述があった。
『命令一下、出で発つは』(著:松浪 清 光人社)
「航空時計を見ると、十二時半をしめしている。あと三十分で戦場に到達するのだ」
この時計、もともとは特攻隊ゆかりの展示をしていた大分市上野丘の予科練資料館にあった。館長も松浪さんと同じく海軍航空隊出身だった縁で譲り受けたという。

父の映像や航空時計をみた娘は「残してもらえるのはありがたい。若い人にも見てもらいたい」
資料館は2024年に閉館したが、約3000点にも上る所蔵品の大半を県護国神社が引き継ぎ、一部を境内で展示。三ノ宮さんや亀田さんたちによって、整理や調査も進められている。そうした中で7月下旬、時計が見つかったのだ。
「残してもらえるのはありがたい。若い人もどんどん機会があれば見てもらいたいし、 ぜひこのまま活動はお願いしたいと思っている」と感謝を述べた堀端優子さん。
所蔵品の整理や調査を行っている亀田さんは「遺品一つ一つが語り部だと私は思っている。当時のことを語ってくれる人がいない代わりに、物が語れるように体感できるような環境、 そういった展示づくりを心掛けていきたい」と話した。
亡き父が遺していたからつながった戦争の記憶。平和を願う思いはこれからも生き続ける。


