8月15日、終戦の日を前に戦争について考える特集、シリーズ1回目は「消えた天気予報」です。
毎日、伝えている天気予報などの気象情報が戦時下では一般に報じられることが禁じられました。
その理由とは。
毎日、テレビや新聞、ネットで手軽に得られる天気予報。
活用方法は様々です。
「遊びに行く時とか絶対天気予報を見ないとね」
「雨だったら嫌だし」
「(夫が)船に乗って漁に行くので天気予報がないと本当に仕事にならないと思います。突然風が吹くとか、海がしけるとかというのがあれば危険なので」(いずれも北海道民)
一方で天気予報を伝える側は。
「お天気の仕事を始めるにあたって、北海道で人が亡くなったら自分のせいだと思いなさいという言葉を先輩にいただいたので、予測される災害に関しては誰ひとり命を奪われてはいけないという気持ちで臨んでいる」(菅井貴子気象予報士)
生活に欠かせない天気予報。
もしも、この天気予報が消えたら。
「あからさまに不自然な空白じゃないですか、あちこち」(北海道職員 国田博之さん)
気象予報士で、北海道職員の国田博之さんです。
過去の気象情報をいまの災害対策に生かす取り組みをしています。
「当時、検閲をして報道してはいけない部分は、こういう風に白塗りで隠してしまった」(国田さん)
国田さんが注目して欲しいというのが、1941年12月9日の新聞です。
天気欄だけが消されています。
この前日、日本は第二次世界大戦に参戦。
戦時下となり、天気予報が消えたのです。
「天気予報が分からないというのは、特に漁師の人は命がけだったと思いますね。穏やかな海がこのまま夕方まで続くのか、翌日まで続くのか、まったく分からない中で船を出していくというのは、相当の恐怖があったのではないか」(国田さん)
戦時体制のもと、人々の暮らしにもじわじわとその影が忍び寄ります。
しかし、なぜ天気予報は消えたのでしょうか。
「(天気予報は)軍事機密情報といっていいと思う」(地方史研究者 山本竜也さん)
気象の観点から地域の歴史を研究している山本竜也さんは、天気予報は戦時下において軍事上、重要な情報だったといいます。
「当時の飛行機は基本的には目で見て、目視飛行をする。見えなければ飛べないので、飛行機が飛ぶにも雲や上空の風の情報は非常に重要だった。(戦争の)相手の国に(日本の)天気予報が分かると、自分の国が被害を受ける可能性が高くなるので、隠していたということです」(山本さん)
日本が戦争に突入した日の天気図です。そこには「極秘」と印が押されていました。
軍事利用されないため、新聞やラジオなど一般向けの天気予報や気象情報の公開は禁止されたのです。
一方で、こうした厳しい中でも気象観測は続けられていました。
「天気予報もさることながら、雨の量や風の強さなど、そういう情報も秘密にされていた」(国田さん)
戦時中も、台風は日本に上陸していました。
「この台風は等圧線の傾きが非常に大きいので、風が強かったというのが特徴で、おそらく風による大きな被害が出ていたのではないかと考えられる」(国田さん)
天気予報が消えた日常、当時のことを記憶している人に話が聞けました。
「(親に)怒られたが(自宅の)屋根に上がって(空襲を)腹ばいになって見た」(近藤敬幸さん)
根室市に住む近藤敬幸さん、96歳です。15歳の夏、爆撃で約400人が犠牲となった根室空襲を経験しました。
「(当時は)北風が吹いていた。その風に煽られて瞬く間に根室市内の8割ぐらいが焼けてしまった。全然考えていなかった。そんなに燃えてしまうなんて」(近藤さん)
この空襲の前、地元の気象を観測する測候所を訪れたといいます。
「天気のことを知っていた方がいいなと。何かに使えると思ったから。興味本位だね」(近藤さん)
軍事的に重要な情報とされた天気予報。
ダメもとで気象担当者にかけあうと。
「(測候所の)職員には会っている。2階に上げてくれた。(会話の詳細は)覚えていない」(近藤さん)
近藤さんは天気の情報が書かれた紙を受け取ったといいます。
当時の気象担当者が、地元の人の生活を気にかけていたのかもしれません。
「天気予報を見聞きできるというのは、平和の一つの象徴だと私は思う」(国田さん)
終戦から6日後、気象報道の制限が解除されました。
その後、約4年にわたり空白だった天気予報は、再び人々のもとに届けられるようになりました。
「当り前じゃない時代があったんだなと思うと、天気を知れるのは便利だし見方が変わってくるなと思います。これから」(北海道民)
天気予報を人々の暮らしから奪った戦争。
当たり前のように天気予報が届く日常に、平和の尊さが感じられます。
