タイ・バンコクの一角にある小さな出版社で、スタッフたちが次々と本を箱に詰めていた。
梱包しているのは、2026年7月23日に68歳で亡くなった作家・東野圭吾さんの小説のタイ語版だ。訃報が伝えられて以降、オンラインでの注文は通常の約10倍に急増。出版社は発送作業に追われている。
東野作品はタイでも高い人気を誇る。
タイ最大手書店チェーンが主催した読者投票企画では、2023年に『ナミヤ雑貨店の奇蹟』、2024年に『容疑者Xの献身』がアジア翻訳推理小説部門の1位に2年連続で選ばれた。
原作小説そのものが多くの読者に支持されている。
そのブームの火付け役となったのが、日本文学の翻訳を手がける出版社「DAIFUKU」だ。
同社はデビュー作『放課後』や『ガリレオ』シリーズなど、これまでに東野作品の半数以上にあたる57冊をタイ語に翻訳・出版してきた。
「推理小説で、こんなに泣けるのか」
編集長を務めるアリーン・チャルムチャイキットさんと東野作品との出会いは、2006年ごろにさかのぼる。
東京大学に留学中、『容疑者Xの献身』を読み、強い衝撃を受けたという。
「DAIFUKU」編集長アリーンさん:
推理小説で、人をこんなに大泣きさせることができるのかと思いました。登場人物が近所の人や知り合いのように感じられ、自分を重ねてしまう。だからこそ、深く感情移入するのだと思います。
その読書体験が、日本文学をタイの読者に届ける仕事へ進む大きなきっかけになった。
アリーンさんは東野作品の魅力について、現実に起こり得ると感じさせる緻密な構成や予想できない結末、そしてまるで生きているかのような登場人物を挙げる。
さらに、「文学や科学、心理学を一つに融合させた小説は、当時のタイにはまだありませんでした」と分析する。
訃報を知った際は、まず情報が事実かどうかを確認したという。
「DAIFUKU」編集長アリーンさん:
長年、日常の中でずっと関わり、尊敬してきた人が突然亡くなった。私たちにとって、とても大きな出来事でした。
スタッフと話し合い、すぐにタイの読者にもSNSで訃報を知らせた。タイの読者からは「まだ68歳なのに早すぎる」「これからも作品を読み続けたかった」と、悲しみの声が相次いだ。
遺作『永遠の記憶』は「これまで以上にレベルアップ」
東野さんの最新作で遺作となった『永遠の記憶』は、8月5日に日本で発売された。
DAIFUKUでは2027年2月ごろのタイ語版発売を目指し、すでに翻訳に向けた準備を進めている。
一足早く原稿を読んだアリーンさんは、作品をこう評価する。
「DAIFUKU」編集長アリーンさん:
ストーリーもサスペンスも、事件の衝撃も、すべてこれまでよりレベルアップしていると感じました。どの場面も続きが気になり、この先何が起こるのか予想がつかず、夢中で読み進めてしまう作品です。
一方、作品の根底に流れる「社会への問いかけ」にも目を向ける。作中には、被害者を十分に守れない司法制度の問題が深く描かれているという。
「DAIFUKU」編集長アリーンさん:
長年の課題でありながら、誰もがなかなか踏み込めなかった問題を真正面から取り上げている。その勇気に強く心を打たれました。作品を通じて問題を知る人が増えれば、社会が変わるのではないか。東野先生には、そうした思いもあったのではないでしょうか。
「一語一句ではなく、感情を届けたい」
翻訳においてアリーンさんが最も重視するのは、日本語を機械的にタイ語へ置き換えることではない。
「DAIFUKU」編集長アリーンさん:
一番大切なのは、日本の読者が読んで感じたことを、タイの読者にも同じように感じてもらうことです。東野先生が伝えたかった感情や思いをそのまま届けながら、タイの読者にとって自然で読みやすい言葉にしたい。
東野作品には、あえて過剰な説明をせず、読者自身の解釈や余韻に委ねる場面も少なくない。翻訳者と出版社が作者の意図をくみ取り、その「余白」まで壊さずに届けることが求められる。
東野さんの著作は現在、世界41の国と地域で出版され、日本国内での累計発行部数は約1億900万部に達する。
「DAIFUKU」編集長アリーンさん:
この作品が、『永遠の記憶』というタイトルのように、読者の心にずっと残り続けてほしいと思っています。
一冊の小説との出会いが、一人の編集者の人生を変えた。東野さんが遺した最後の物語は、海を越え、タイの読者にも届けられようとしている。


