トランプはローマ教皇に屈したのだろうか?
話は古くなるが、1077年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世は、聖職叙任権をめぐって対立したローマ教皇グレゴリオス7世によって破門された。破門を解いてもらうため、ハインリッヒ4世は教皇が滞在していたイタリアのカノッサ城を訪れ、門前で雪の中、裸足のまま3日間断食して赦しを請い続け、やがて破門は解かれた。いわゆる「カノッサの屈辱」である。これにより、カトリック世界において教皇の権威が皇帝をも上回ることが示されたと一般には理解されている。
だが、この出来事を単なる屈辱劇と見るのは正確ではない。当時、破門は宗教的制裁にとどまらず、政治的支配を根底から崩す力を持っていた。破門された君主に対しては、諸侯や家臣は忠誠義務を解かれ、反乱さえ正当化される。つまりそれは、王権の正統性を奪う“政治的死刑宣告”に等しかった。ハインリッヒ4世にとって、カノッサで膝を屈することは屈辱であると同時に、権力維持のための合理的な選択でもあった。
話は現代に移る。2026年の復活祭、ローマ教皇レオ14世は、戦争と分断に覆われる世界に向けて平和を呼びかけた。その発言は、米国とイスラエルによるイラン攻撃を念頭に置いたものと受け止められた。
これに対し、ドナルド・トランプ米大統領は反発する。教皇を「犯罪に甘い」「外交でもひどい」と批判し、核問題をめぐっても強い言葉を投げかけた。さらに、自らをキリストになぞらえた画像をSNSに投稿し、宗教的冒涜だとの批判も招いた。
一方の教皇も、トランプの「イランを消滅させる」との発言に対し、「受け入れがたい力の誇示」として非難。両者の対立は、宗教と政治の正面衝突の様相を帯びていった。
キリスト教徒有権者の離反恐れた?聖書朗読会への参加を表明
ところが17日になって、トランプ大統領は一転して聖書の公開朗読への参加を表明する。キリスト教団体「Christians Engaged」が主催する「America Reads the Bible」と題されたイベントで、大統領は「信仰の再生」と「神のもとにある国家」を強調する声明を発表した。
大方の米国のマスコミは、トランプ大統領が教皇との対立を受けて、自身の福音派支持基盤を安心させ、宗教的権威を主張するための戦略的な取り組みであると解釈している。
この朗読会には大統領本人だけでなく、ピート・ヘグセス国防長官やマルコ・ルビオ国務長官ら、複数の閣僚も参加する予定だという。つまりこれは、個人の信仰というよりも、政権としての姿勢表明と見ることもできる。
一方、教皇レオ14世も18日、自身の発言が米国のドナルド・トランプ大統領からの批判への反応として解釈されたことを遺憾に思うと述べ、同氏と議論するつもりはまったくないと強調した。
このタイミングは偶然なのか。
実はこの前日、有力紙ワシントン・ポスト電子版は「トランプ対教皇レオが選挙に与えうる影響」と題する記事を掲載していた。そこでは、カトリック教徒を中心とする宗教票の動向が、中間選挙に影響を及ぼす可能性が指摘されている。実際、カトリック人口の多い選挙区では、共和党議員がトランプを公然と批判するという異例の動きも出ている。
トランプ大統領はカトリック教徒ではないが、米国にはカトリック教徒が総人口のおよそ2割前後いる。共和党の重要な支持基盤の一つであると同時に、近年は移民の増加によって政治的に揺れ動く層でもある。その代表的存在である教皇と正面から対立することは、選挙戦略上、小さくないリスクを伴う。
トランプ大統領は教皇に赦しを請うたのか
ここで浮かび上がるのが、ひとつの仮説である。今回の聖書朗読への参加は、トランプにとっての「カノッサ」ではなかったのか。
もちろん、本人は教皇に従う意思などないと明言している。だが、政権ぐるみで宗教的行事に参加するという行為は、少なくとも宗教的価値への接近、あるいは対立の緩和を意識した動きと見ることもできる。それは「服従」ではない。しかし「調整」とは言えるかもしれない。

カノッサの雪の中での沈黙の赦しと、現代のカメラの前での聖書朗読。形はまったく異なる。だが、宗教と権力の緊張関係に直面したとき、政治が何らかの応答を迫られるという点では共通している。
トランプ大統領は、ローマ教皇に赦しを請うたのだろうか。それとも、支持基盤をつなぎ止めるための計算された演出に過ぎないのか。その答えは、やがて選挙という形で示されることになるだろう。
(執筆:ジャーナリスト 木村太郎)
