能登半島の地震と豪雨が奪ったもの。それは家屋であり、生活であり、そして子どもたちが通う学び舎でもあった。輪島市町野町にある東陽中学校が、2024年3月31日をもって閉校した。開校からわずか15年。3年間のうち校舎で学べたのは1年ほどに過ぎなかった最後の卒業生たちは、それでも前を向いて巣立っていった。「置かれた場所で咲きなさい」——卒業式で贈られた言葉は、子どもたちの心に深く刻まれた。
二度の災害を乗り越え、東陽中学校が15年の歴史に幕

「卒業証書。中学校の課程を卒業したことを証する。」
凛とした声が、会場に響いた。今年3月で閉校する輪島市の東陽中学校の卒業式。証書を受け取る生徒の数は、5人。

式が行われたのは、東陽中学校の校舎ではない。3年生が最後に授業を受けた、隣接する町野小学校の体育館。自分たちの校舎で卒業式を迎えることすら叶わなかった。

東陽中学校の柿本二美代校長は、着物姿でマイクの前に立ち、卒業生たちに言葉を贈った。
「置かれた場所で咲きなさい。それぞれの新たな世界、新たな場所でお互いに咲くように努力しましょう。」
その言葉は、ただの激励ではなかった。二度の大きな災害に翻弄され、仮の校舎を転々としながら学び続けた生徒たちへの、深い敬意と慈しみが込められていた。

答辞に立った卒業生、山崎優香さんは、凛とした表情でこう誓った。
「高校生になっても部活動や学校行事を通して、私たちの元気な姿や、夢に向かって挑戦し続ける姿を見ていただけるように頑張ります。」

式のあと、在校生や先生たちが東陽中学校最後の卒業生を拍手で送り出した。会場に響き渡る拍手の音は、短くも濃密だった彼女たちの3年間を称えるように、いつまでも続いた。
「3年間のうち、校舎での学びは1年ほど」

今年度卒業した3年生たちの中学校生活は、まさに「試練の連続」だった。
最初の試練は、2024年1月1日に起きた能登半島地震だ。東陽中学校の校舎は大きな被害を受け、生徒たちは自分たちの校舎で学ぶことができなくなった。そして追い打ちをかけるように、同年9月21日には奥能登豪雨が発生。小学校も中学校も床上浸水の被害を受け、10月1日からは、隣町の能登町にある柳田中学校と柳田小学校に通う形で半年間を過ごすこととなった。

「能登半島地震で被災しまして、使える校舎が本当になかったというのが現状ですね。9月21日の豪雨災害で床上浸水を小学校も中学校もしてしまい、10月1日からは柳田中学校と柳田小学校にそれぞれ小中学生を通わせていただいて半年間過ごしました。」
柿本校長はそう振り返った。3年間のうち、東陽中学校の校舎で学習できたのはわずか1年ほど。残りの2年は、被災した校舎を離れての学校生活だった。

それでも卒業生の一人、松本愛未さんは、こう語った。
「自分たちの校舎、使えないことがつらかったんですけど、先生たちとか支えてくれた人のおかげで楽しく学校生活を送ることができました。」

2010年の誕生、統合が生んだ「活気ある学校」
東陽中学校が誕生したのは2010年のこと。町野中学校と南志見中学校が統合し、新たな学校として開校した。

「統合については、町野地区の保護者も南志見地区の保護者もすごくいい意味で歓迎をしていました。子どもたち、それから地域の人たちにとっても統合して、すごく活気ある学校だったなあというふうに思っています。」
こう語るのは、町野公民館の館長で元東陽中学校校長の村元悟さんだ。統合当初、両校の子どもたちと保護者が一体となり、新しい学校への期待が地域全体に広がっていたという。

開校当初の在籍生徒数は94人。二つの中学校が一つになることで生まれた相乗効果は、確かなものとして感じられた。
「両地区の良さが集まっていたなあと思っていたので、全体的にも雰囲気的にもすごく良かった。このままいければいいなと思っていたのが当時の感想です。」
村元さんの言葉には、あの頃の学校が持っていた熱気と希望がにじんでいた。子どもたちの笑い声が飛び交い、地域全体が学校を中心に活気づいていた——そんな光景が目に浮かぶようだった。

40年で人口は半分以下、児童数は7割減
しかし、学校を取り巻く環境は少しずつ、しかし確実に変わっていった。
輪島市の人口と児童数の推移を示すグラフが、その現実を突きつける。40年前、4万5,000人を超えていた輪島市の人口は、今や半数以下の約2万人にまで落ち込んだ。そして児童数に至っては、1985年の5,265人から2025年には760人へと、実に約7割も減少した。

東陽中学校も例外ではなかった。開校当時94人いた生徒は、最後には8人にまで減少していた。15年間で、生徒数は10分の1以下になってしまったのだ。
少子化による人口減少は、日本全国の地方が抱える共通の課題ではある。しかし輪島市、とりわけ町野地区においては、それに加えてさらに深刻な要因が重なった。能登半島地震と奥能登豪雨——二度の大きな自然災害が、地域の人口流出に追い打ちをかけたのだ。

二度の災害によって自宅を失った家庭は、仮住まいを求めて地域外へと移らざるを得なかった。子どもたちも、親と一緒に故郷を離れた。地震前は約20人いた生徒のうち、約半数が市外へ転出したという。
「この地域を離れるのも、その方たちにとっては苦渋の決断だったと思いますし、戻れるものなら戻りたいって思っていらっしゃる方も多いと思います。」
柿本校長はそう語り、言葉を詰まらせるように一拍置いた。転出した生徒や家族への思いやりが、その短い言葉に凝縮されていた。
「子どもたちの声が聞こえない寂しさ」と、残された者の使命

村元さんにとっても、かつて自分が校長として勤めた学校が消えていく現実は、胸の痛むものだった。
「子どもたちの活動する姿とか声が聞こえないというのはすごく寂しいなあというふうには思っているんですけれども、また、お祭り等でこちらに戻ったときに、やっぱり町野いいなあとか、そういうことを感じてもらえるような、また続けて作り上げていくのが、残された人たちの、僕たちの役目かなあというふうに思っています。」
学校がなくなることで、地域から子どもたちの声が消える。それは単に学校という施設が一つなくなるだけの話ではない。地域のにぎわいや活力の象徴が失われることを意味する。村元さんの言葉には、そうした深い喪失感と、それでもなお地域を守り続けようとする覚悟が滲んでいた。

輪島市はこうした現状を踏まえ、生徒数の減少と校舎の老朽化・被災を受けて、市内の小中学校13校を4校に再編することを決定した。
東陽中学校は、隣接する町野小学校と統合し、4月1日から「東陽小中学校」として新たなスタートを切ることになった。
「せっかくできる新しい学校ですので、子どもたちがわくわくするような、先生たちと子どもたちが一緒に作り上げていく、そういう学校になればいいなあと思います。」
柿本校長の言葉には、悲しみの中にも前向きな期待が込められていた。閉校は終わりではなく、新たな始まりでもある——そのことを、校長自身が誰よりも強く信じようとしているように見えた。
100人以上が集まった閉校イベント、最後の校歌

統合を前に行われた町野小学校と東陽中学校の閉校イベントには、卒業生や地域住民など100人以上が集まった。
かつてこの町で学び、この地を離れた人たちが、久しぶりに顔を合わせ、再会を喜び合った。イベントでは、在校生がダンスや太鼓を披露し、参加者全員で最後となる町野小学校の校歌を歌った。

♪~澄みわたりゆく 海山の うるわしき色 称えつつ まことの心 磨かなん ああ学び舎の 光満ちたり~

その歌声は、かつてこの地で育った人たちの記憶を呼び起こすように、体育館いっぱいに広がった。
卒業生の一人は、感慨深そうにこう語った。
「自分の思い出の学校なんで、6年間通ってきて、先生ともみんなとも思い出作れた場所なんで、なくなるのは悲しいです」
「来て良かったなって思いました。友達と話せて」
——どんな話をしたのか、と問われたその卒業生は、少し恥ずかしそうに答えた。「背の話とかしました」。久しぶりに再会した友人と交わした、他愛もない会話。それこそが、学校という場所が育んできたものの本質だったかもしれない。

会場には、地震で子どもたちを奈良に移したという卒業生の家族の姿もあった。
「(地震で)子どもたちを全員、奈良に移してしまったので、いつでも町野に戻ってこれるように努力はしたいなと思っています。」

その言葉には、故郷への思いと、いつか戻れるという希望が込められていた。やむを得ず離れた場所への愛着と、帰還への切実な願いが、静かに、しかし確かに伝わってきた。
「町野を大事にして、学校生活を楽しんでほしい」
卒業式に臨んだ生徒の一人は、これから新しい学校に通う後輩たちへのメッセージをこう語った。
「小中学校になっても、今の小学生とか中学生には、この町野を大事にして楽しんでほしいな、学校生活を楽しんでほしいなって思っています。」

二度の災害を経験し、自分たちの校舎で学ぶことすら叶わなかった3年間を送ってきた卒業生が、後輩たちにかける言葉。不満でも恨みでもなく、「この町を大事にしてほしい」という、愛情に満ちた願いだった。
「3、2、1……ありがとう!」

東陽中学校は、15年間でさまざまなものを経験した学校だった。統合による活気、少子化による生徒減少、そして二度の大きな災害。それでもその中で学んだ子どもたちは、それぞれの場所で咲こうとしている。閉校式の最後には、みんなの思いを乗せたバルーンが、能登の空へと高く舞い上がっていった。

(石川テレビ)
