この春、金沢学院大学を卒業し、大相撲の世界に飛び込む大森康弘選手。国民スポーツ大会で個人・団体の2冠を達成し、全日本選手権では準優勝。7つの相撲部屋から勧誘を受けるほどの逸材が、能登半島の小さな町・穴水から誕生した。両親や恩師の証言から浮かび上がるのは、幼い頃から相手を倒すことが「好き」だった少年の物語と、能登半島地震が植えつけたふるさとへの強い思いだ。「目標は横綱とやりあうことです」――大森選手のルーツをたどる。

「この子は本当に大きくて」――4030グラムで生まれた少年

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石川県穴水町。能登半島の付け根に位置するこの静かな町に、大森接骨院はある。父の春養さんが営む接骨院で、大森康弘選手はその末っ子として生まれた。
「この子は、まあ、ほんとに大きくて、4030グラムありましたね」

赤ちゃんの頃からひときわ大きかったという大森選手が相撲を始めたのは、小学1年生のときだった。

母のゆきみさんは、「小学校に入るまで毎日、『相撲しよう』って言ってくるんですよ私に。台所にいても『相撲しよう』って。だから、『この人は相撲させたほうがいいな』って思っていたんです、ずっと」
ゆきみさんの言葉には、息子の本質を早くから見抜いていた母の確かな眼差しがある。そして相撲を始めてからの6年間、大森選手が稽古を休んだことは一度もなかったという。
「6年間、1回も休んでいないと思います。嫌な顔したこと、1回もないです。相手を倒すっていうのが好きだったんですよ」
春養さんはそう語り、柔らかく笑った。「相手を倒す」ことへの純粋な喜びが、少年を土俵に引き寄せ続けた。

「とにかく潜って足を持ったり」――小柄な少年が磨いた動きの原点

ところが、小学校時代の大森選手には大きな壁があった。背が伸びず、いつも体の大きな相手に苦しめられていたのだ。
「とにかく潜って足を持ったり、動き回って横についたり、いろんなことをしないと勝てなかったんですよ。」

春養さんの回想には、小柄な少年が相手に食らいついていく姿が浮かぶ。試行錯誤しながら生み出した動きの数々は、しかし後に大きな財産となる。
「小さい時の動きのまま、大きくなっていますから」
春養さんはそう続けた。体が大きくなった今も、潜り、動き回り、相手を翻弄するスタイルは変わっていない。小柄だった少年時代の「苦肉の策」が、現在の大森選手の武器として生き続けているのだ。

それでも県内では上位の成績を収めていた大森選手だったが、中学校に進むと、一転して相撲をやめてしまう。

「僕はもう二度とこのまわしはいらない」――野球への転身と、静かな覚悟

中学に入った大森選手は相撲を離れ、野球に挑戦することを選んだ。父の春養さんはそれを止めなかった。
「子どもの時だから、いろんなスポーツ、いろんなことやってみたいんだろうなって気持ちで、やったらいいんじゃないかって言って。反対はしていないです」

当時の自分を振り返り、大森選手自身もこう語っている。
「(相撲を)やりたくないなと思っていたので、一回ほかのことをやってみたいなと思って野球をやっていました」
相撲を「やりたくない」と感じていた。その率直な言葉の裏には、幼い頃から土俵に費やしてきた少年なりの疲れや迷いがあったのかもしれない。野球でも大森選手は持ち前の運動神経を発揮し、活躍を見せた。

ところが、中学最後の大会が終わったあと、大森選手は父に告げた。
「康弘が『また相撲したい』って言い始めて」
春養さんが静かに振り返るこの言葉を、母のゆきみさんは特別な重みをもって受け取った。なぜなら、野球を始めるとき、大森選手はこう言っていたからだ。
「小学校の時に、『僕はもう二度とこのまわしはいらない』って言っていた。野球を始める時に、(相撲は)しないって言っていました。だから高校に入る時に相撲を始めると言ったのは、よほどの覚悟で『相撲をする』って言ったんだなと思ったんです」

自分の口で「もう二度とまわしはいらない」と言った大森少年が、それでも「また相撲がしたい」と戻ってきた。その言葉の持つ意味を、ゆきみさんはすぐに感じ取った。それは単なる気まぐれではなく、中学3年間の野球生活を経て確かめた、本物の覚悟だった。

高校・大学で磨かれたスピードとパワー

強い覚悟を胸に、大森選手が選んだのは高校相撲の名門・金沢学院大学附属高校だった。高校時代に2度の全国2位に輝き、大学では国民スポーツ大会で個人・団体の2冠を達成。そして昨年11月の全日本選手権では、アマチュアの強豪たちを次々と破って準優勝という輝かしい実績を残した。

7つの相撲部屋から勧誘が届くほどの選手に成長した背景には、金沢学院の環境が大きく影響していると春養さんは語る。
「あそこは、雰囲気的に下の学年でも上の先輩に親しく話しかけたりとか、アットホームな感じがしますよね。のびのびと、一人一人の個性を見極めて伸ばすような、そういう指導だったと思っています。あの子に向いていたと思います。高校・大学と一番いいところに行ったんじゃないかなって」

個性を尊重し、のびのびと力を伸ばす環境が、大森選手のスピードとパワーをさらに磨き上げた。小学校時代から染みついた「動き回る」スタイルは、大学レベルの稽古の中で洗練され、いよいよプロの世界でも通用する武器へと成長を遂げた。

「この子は強くなるな」――元小結・遠藤も育てた指導者の目に映ったもの

小学生時代の大森選手を指導した上野勝彦さんは、初めて大森選手を見たときの印象をこう語る。
「いいものを持って生まれたから、『この子は強くなるな』って思ったんですよね。スピードとか、足腰の良さがあって、教えればまだまだ強くなるなって」

上野さんは大森選手だけでなく、元小結・遠藤の北陣親方も幼少期から指導してきた。穴水町という同じ土地で育ったこの2人に共通するものを聞くと、上野さんは迷わずこう答えた。
「内に秘めたものは、共通するものがありますね。ふざけることはなかったですし、やるときは一生懸命やっていましたね」

表面では飄々としていても、内側に燃えるものを持つ。それが穴水という土地が育む力士の気質なのかもしれない。「内に秘めた強さ」は、大森選手と北陣親方に受け継がれた、穴水の相撲人の共通項だ。

「釣れたおいしい魚を食べることが趣味です」――リフレッシュの場、ふるさとの川

厳しい稽古の合間、大森選手が心と体を癒やす場所があった。穴水町を流れる川だ。
「休みの日はそこで魚釣りをして、釣れたおいしい魚を食べることが趣味です」
大森選手はそう語り、少し照れたように笑った。自分で捌くのか、という問いには「母親に捌いてもらいます」と返した。その答えがいかにも大森選手らしい。

春養さんはその川を指差しながら言った。
「この川です。ここにはハゼがいるんです。普段、学校で厳しい稽古をして、こっちに帰ってきて、心身をリフレッシュする場だったのかなと思います」
ふるさとの川のほとりで、竿を垂らす。それが大森選手にとっての「休息」であり、再び土俵に向かうエネルギーの源だった。

「いつか僕もこっち側に」――能登半島地震が変えた、ふるさとへの思い

しかし、そのふるさとは大きな傷を負った。2024年元日の能登半島地震だ。穴水町も甚大な被害を受け、大森選手自身も一時、避難生活を余儀なくされた。

避難所での生活の中で、大森選手はある光景を目撃した。
「避難場所で、町の方たちがテレビで大相撲を見ていて、遠藤関をすごく応援して、勝ったときにすごい喜んでいたので、いつか僕も、こっち側になりたいなって」

その言葉には、「プロを目指す」を超えた重みがある。被災した人々が、テレビの向こうで戦う同郷の力士に熱狂し、その勝利に涙を流すほど喜んでいた。その姿が、大森選手の胸に深く刻まれた。

春養さんも息子の変化をこう感じ取っていた。
「地震を契機にふるさとを大切にしたいっていう気持ちが強くなったんだと思います。前はそこまではなかったというか、ないことはないだろうけど、ふるさと、『能登』っていうのが頭の中にあるんだと思います、今」
地震という理不尽な災害が、大森選手に「自分が戦う意味」を与えた。穴水町の人々のために、能登のために、土俵に立つ。その覚悟は、単なる競技への情熱をはるかに超えたところにある。

「親方に、僕に相撲を教えることが俺の使命だと言われて」――追手風部屋への入門を決めた直感

今月18日、大森選手は卒業後の進路を発表した。入門先として選んだのは、同じ穴水町出身で、元小結・遠藤の北陣親方がいる追手風部屋だ。
「北陣親方に、『僕に相撲を教えることが俺の使命だ』と言われて、直感的にここに決めました」
7つの相撲部屋から声がかかる中で、大森選手が決め手にしたのは論理ではなく「直感」だった。同郷の先輩が発したその言葉が、大森選手の心を動かした。

金沢市出身の元十両・髙立さんは、この判断を高く評価する。
「元・遠藤の北陣親方がいる部屋で、去年は小松市出身の可貴くん(金沢学院大出身で大森選手の1歳上)も入門しているので、すごくいい部屋を選んだんじゃないかと思います」

「力がつくんじゃないかと思います」――4人の関取が在籍する最高の環境

追手風部屋の強みは、同郷の親方だけではない。全ての相撲部屋の中で2番目に多い、4人の関取が在籍しているのだ。その環境も大森選手にとっての大きな財産と見る。
「大栄翔関や翔猿関など、突き押しが得意な力士もいれば、相手を翻弄するタイプの力士もいますし、そういう面では、いい稽古ができて、力がつくんじゃないかと思います」多彩なスタイルを持つ関取たちと毎日稽古できる環境は、まさに大森選手の成長に最適だ。突き押しの迫力を体で受け、翻弄する技を間近で学ぶ。そうした積み重ねが、大森選手のスピードとパワーをさらに高いレベルへと押し上げることになる。

ただ、一つだけ懸念があるという。追手風部屋があるのは埼玉県草加市。公共交通機関で両国国技館まで向かうには、かなりの時間を要する。髙立さんの同級生にも追手風部屋の力士がいたが、「相撲教習所に通うのが大変だ」と語っていたという。

大森選手本人も、この点については正直に不安を打ち明けた。
「電車に乗れるかなって。東京の電車には乗り慣れていないので、そこだけが不安です」
能登育ちの青年にとって、都会の電車は確かに未知の世界。しかし、その素直な言葉もまた大森選手らしい。相撲の話になれば横綱を目指すと言い切り、電車の話になれば乗れるか不安だと言う。その飾らない姿が、この青年の魅力の一つでもある。

「一喜一憂しないところ」――プロの世界でも武器になるメンタル

髙立さんが大森選手の最大の強みとして挙げるのは、フィジカルだけではない。そのメンタルの強さだ。
「一喜一憂しないところ。負けても引きずらずに次っていうふうになるタイプだと思うので、幕下は7番しか取組がないですけど、関取になれば15日間で15番ありますので、負けても勝っても、気持ちの切り替えはすごく上手にしていくんじゃないかと見ています」
勝てば天にも昇る喜びを感じ、負ければどん底に落ちる。そういった感情の波に翻弄されることなく、淡々と次の一番に集中できる能力は、長い場所を戦い抜くうえで極めて重要だ。15日間という長丁場の本場所で、その切り替えの早さは際立った武器になる。

さらに髙立さんはこう続けた。
「少しまだ体は小さいですけど、力強さとスピード感が抜群だと思います。今からそこを磨いていけば、幕内上位でも相撲をとれる力は十分あると思うので、頑張ってもらいたいですね」
「幕内上位でも相撲をとれる力は十分ある」元十両力士の目に、大森選手はそれだけの可能性を持った存在として映っている。

「皆さんの記憶に残るような力士に」――両親が息子に託す思い

穴水町、そして能登への思いを背負い、大森選手は大相撲の世界へと旅立つ。その息子を、両親はどんな言葉で送り出したのか。

春養さんはこう語った。
「ここぞという大一番で勝ち切る。勝負強くて、皆さんの記憶に残るような力士になってもらいたいです」
「皆さんの記憶に残るような力士」――その言葉には、単に強い力士になってほしいという以上の願いが込められている。土俵に立つ息子が、避難所でテレビを見ていた穴水の人々の記憶に、そして日本中のファンの記憶に深く刻まれる存在になってほしい。父の願いは、静かで、しかし深い。
母のゆきみさんは、言葉を選びながらこう言った。
「一歩ずつ前を向いて、ケガのないように頑張っていってほしいだけです」
ただ前を向いて、ケガなく。それが母親の、変わらない祈りだ。

5月の夏場所で能登の新星がデビューへ

大森泰弘選手は、おそらく5月の夏場所でデビューすることになる。
「目標は、横綱とやりあうことです」
能登半島地震の避難所で、テレビに映る力士に熱狂する町の人々を見た少年は、「いつか僕もこっち側になりたい」と誓った。その誓いを胸に、大相撲界の新しい舞台に立つ。

(石川テレビ)

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