15年目で再会した家族の思いです。2023年、宮城県で見つかった遺骨が警察の鑑定で岩手県山田町の女の子のものと判明し、2025年10月に家族のもとに帰ってきました。
改めて寂しさも募る中、家族の止まっていた時間が動き出しています。
山田町で暮らす山根朋紀さん(52)と千弓さん(49)の夫婦です。
東日本大震災から15年を迎えようとしていた2025年10月、行方不明となっていた長女・捺星さんの遺骨が家族のもとに帰ってきました。
震災当時6歳だった捺星さん、自閉症のため会話をすることはできませんが明るくて元気いっぱいな女の子でした。
父・朋紀さん
「手に負えない子どもでしたね」
母・千弓さん
「座っているっていうことがないくらい常に動いていましたね。にぎやかな感じの家庭でした」
震災当時は捺星さんと両親、祖父母それに長男の大弥さんの6人暮らしで、目が離せない捺星さんを中心に回っていたという山根さん一家。
その生活は15年前のあの日、一変しました。
2011年3月11日、山田町は巨大な津波に見舞われ、死者・行方不明者830人が犠牲となりました。(岩手県まとめ・関連死含む)
当時、山根さんの自宅があった地域・山田町八幡町は海からの距離は約500m、震災前から街並みは一変しています。
震災当日、祖母と自宅にいた捺星さんは避難しようと玄関を開けた先に見えた津波に驚き、祖母の手を離して家の中に走って戻ったといいます。
母・千弓さん
「捺星が驚いて、つないだ手を離して茶の間の方に逃げていったと。おばあちゃんは追いかけることもできないまま、すぐ波が入ってきた」
祖母は津波にのまれながら一命を取り留めましたが、当日、父・朋紀さんが周辺の屋根を伝って家にたどり着いた際には、捺星さんの姿はありませんでした。
父・朋紀さん
「『捺星は』と聞いたら、『波にのまれた』って」
その後周辺では火災が発生し、火が収まった2日後から再びあたりを捜したものの、残っていたのは瓦礫だけでした。
毎日のように遺体安置所に通いましたが、捺星さんは見つからず、面影だけを捜す日々は今でも続いています。
母・千弓さん
「どこかで『ママ』って他の子どもが言っているのに反応してみたり。寂しいなあって。もし震災が来ると分かって、最後だって分かっていたら、もっと抱きしめたかった。捺星と一緒に楽しく過ごしたかった」
本来であれば20歳を迎えた2025年、両親は捺星さんの同級生が出席する「二十歳のつどい」に出向きました。
母・千弓さん
「かわいい振袖を着た子たちが、看板の前で写真を撮っている姿を遠くで見て。ああ来なきゃよかったかなって」
お祝いの場であるのに、捺星さんが6歳までしか生きられなかった現実を強く感じてしまったといいます。
母・千弓さん
「ずっと二人で泣いたんです。『仏壇に飾る花をきょうだけは、かわいくて振袖っぽい花にしてあげたい』。それくらいしかできない寂しさもある。実際に振袖も着せてあげたかった」
日に日に諦めの思いが強まる中、震災から14年が過ぎた2025年9月、その知らせは突然入りました。
母・千弓さん
「朋紀さんの携帯に宮城県警から、捺星の骨が見つかりましたっていう連絡が」
山田町から約100km離れた宮城県気仙沼市の大谷海岸で、2023年2月に建設会社の作業中に遺骨が見つかり、警察による鑑定の結果、捺星さんの下あごの骨の一部と判明しました。
母・千弓さん
「もう戻ってこないっていう諦めの気持ちがあったので。こんな奇跡が起こるんだと」
14年7カ月ぶりの再会。両親は楽しみな思いを胸に引き取りに出向いたと言います。
しかし小さくなった娘を抱いた母・千弓さんの胸に浮かんだのは、あの日の後悔でした。
母・千弓さん
「玄関まで追いかけてきて、私に『仕事に行くな』と泣いてきた。休んで家にいればよかったっていう後悔。玄関で泣かせてしまったのが最後です」
遺骨を引き取った日のことを千弓さんはこう振り返ります。
母・千弓さん
「楽しみに楽しみに(遺骨の受け取りに)行ったけれど、小さくなった現実を突きつけられて、ただうれしいだけじゃない悲しみがまた湧いてきた。当時のことを思い出したり。本当の捺星に会いたい」
心が揺れ動き続けた15年。
そんな山根さん夫婦を近くで支えてきた女性がいます。
古田楓恋さん(20)、捺星さんの保育園の同級生です。
自身が小学校を卒業する際には、捺星さんの分の卒業証書を手作りし両親にプレゼントしました。
母・千弓さん
「家族みたいな感じに思っています、大事な。捺星のことを忘れないでいてくれることに、すごく感謝っていうか」
今もたびたび山根さんの家を訪れる楓恋さんの存在は、両親に成長した捺星さんの姿を想像させてくれています。
母・千弓さん
「(捺星も)こんな感じなのかなとか」
楓恋さん
「もうちょっとたぶん、なっちゃんおしとやかな気がする。ここまでうるさくない」
母・千弓さん
「案外おしゃべりだったんじゃない?」
楓恋さん
「じゃあたぶん、騒がしくなるんだ」
そんな2人の貴重な映像があります。
震災の1週間前、2011年3月4日に撮影された保育園の行事の様子です。
話すのが難しい捺星さんの代わりに、楓恋さんが自己紹介をしていました。
楓恋さん(当時保育園児)
「山根捺星。足袋を履くのが嫌だったけれど、虎舞が大好きです」
楓恋さんの言葉に、うれしそうにうなずく捺星さん。これが生前最後の映像となりました。
楓恋さん
「行方不明のままだったから、どこかで生きて暮らしているんじゃないとか、中学生ぐらいまでは思っていた。見つかって、あ、やっぱり亡くなっていたんだ…と」
現在は1児の母となった楓恋さんは、災害などから子どもの命を守る責任感は、歳を重ねるごとに強まっているといいます。
楓恋さん
「何があっても守らなきゃない。もし(娘が)亡くなったら、なっちゃんのママたちも悲しむので、そんな思いはもう二度とさせたくないから」
楓恋さんは一緒に時を歩むはずだった捺星さんの思いを、未来へつないでいます。
震災から15年。
後悔や自責の念は、消えることがないといいます。
その一方、捺星さんが帰ってきた事で山根さん一家では捺星さんの思い出話をすることが増え、前向きに捉えられるようにもなりました。
母・千弓さん
「外に出たい、一人で色んなところに行きたいっていう捺星が、14年好きなところに遊びに行ってきて、やっと帰ってくる気持ちになって家に帰ってきたのかなって」
いつでも、いつまでも一家の中心にいる捺星さん。
遺骨とともに撮った写真は、家族全員笑顔です。
Q:今4人で暮らせている実感はありますか?
母・千弓さん
「姿は見えないですけれど、家の中がちょっと明るさっていうか、温かみがちょっと増えたかなって。『ただいま』って言って過ごすようになりました」
あの日から15年目にして口にすることができた「おかえり」と「ただいま」。
一家はあの日止まってしまった時計の針を、少しずつ進めようとしています。