天皇陛下は、12月23日、85歳の誕生日を迎えられました。
誕生日にあたり、陛下は記者会見に臨み、これまでを振り返られました。
陛下が記者会見に臨まれるのは最後となる見込みで、また、その内容は、とても感動的なものでした。

ご退位まで4か月余りとなった心境

まずこの一年を振り返られた天皇陛下はご退位まで4か月余りとなった心境に触れられました。

「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います」

ご退位の日まで天皇であり、象徴としてお務めを果たしていこうというご決意を示されています。

 
 
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そして、平成という時代に戦争がなかったことを本当に安堵し、平和をいかに祈り続けたのか、思いを語られました。

「我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。」

沖縄への思い

こうした平和を語る中で、これまで11回訪問した沖縄への思いも示されているのです。
初めて沖縄を訪問されたのは、皇太子時代の昭和50年のことで、この時、ひめゆりの塔事件、火炎瓶が投げつけられる事件が起きています。
事件後の夜、陛下は次のような談話を出されています。

「多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」 

今回も、「先の大戦を含め実に長い苦難の歴史」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲」という言葉を使いながら沖縄の抑圧された歴史への思いを語られました。そして「私どもの思いは、これからも変わることはありません」と述べられています。

初めて沖縄を訪問された時から、思いは変わることなく現在に、そして未来へと続いていく「ぶれない心」を示されているのです

沖縄県をご訪問(3月)
沖縄県をご訪問(3月)

被災地への思い

次に触れられたのは、被災地への思いです。

「数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます」

陛下は、昭和34年に伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪問していて、これが被災地訪問の初めてだったことを明かされています。これは、昭和天皇の命を受け訪問されたもので、その後も昭和61年11月伊豆大島の三原山の噴火により本土に避難した人たちをお見舞いされています。

皇太子時代、伊勢湾台風の被災地へ(1959年)
皇太子時代、伊勢湾台風の被災地へ(1959年)

こうした大災害に対し皇室はこれまでも心を痛め、惨状を視察したほか支援の手を差し伸べています。古くは、明治天皇の后、昭憲皇太后が1888年(明治21年)に福島県の磐梯山が噴火した際、当時発足したばかりの日本赤十字社の救護員などの派遣の沙汰を出しています。

1927年(大正12年)の関東大震災の際には、昭和天皇は被災状況をご自分で視察しています。また、大正天皇の后、貞明皇后は自ら被災地を視察したほか、罹災者の収容施設や治療施設へと出向き、医師や看護師そして患者を慰問、言葉をかけたといいます。

それ以前の天皇も飢饉などが発生すると、国の安寧を祈り続けています。

陛下は、天皇であることになかに、これまでの天皇と同様に国が安らかであることを求め続けられています。

「戦争」に対しても、平和の中で国民が安心して暮らせることを望まれているのです。

ご自分の御代に何か惨禍が起きることをご自分の痛みとされているのではないかとも思えます。

 
 

そんな中で、陛下がこれまでの天皇の思いを一歩進められた部分があります。
それは、陛下が自ら現場へと足を運ぶという「実践」をされ始めたことです。

天皇は動かず、命じたり、お気持ちを受け皇族を含め周囲の人たちが行動をしたりしていたのを、陛下が現地へ向かうことを決断し、実践をされたのです。

さらに、現場を視察し、大災害が起こればどのようなことが起きうるのか、何が必要なのか、総合的に防災、減災を考え、次の時代の教訓を残そうとされる。
慰霊へと赴けば、その悲惨さを風化させないよう平和の大切さを示される。
未来に残す、歴史の継続性の大切さを発信されているのです。

高知県をご訪問(10月)
高知県をご訪問(10月)

障害者への思いと国際親善

こうした、「天皇として過去から受け継がれたもの」がある一方で、陛下が切り開いていかれたものもあります。

それが、障害者への思いであり国際親善です。

特に障害者に対しては、皇太子時代に「パラリンピック東京大会」の開催に尽力されて以降も障害者スポーツに対しては強く心を寄せられています。リハビリだけでなく障害者も生き生きとした人生送ってほしいをというお気持ちが、今も続いているのです。

また、日本から海外へと移住した人の苦難の歴史から、日本へとやってくる海外の人たちの苦労を思い、また、お互いの文化を知ることが友好親善につながっているとお考えなのでしょう。他国の文化を学び、自国の文化を理解してもらうことをお伝えになりたかったのだと思います。

皇后さまへの感謝の気持ち

今回、私が一番心を打たれたのは皇后さまに対する感謝の念を正直な言葉で述べられている部分です。

それは、陛下が全身全霊で象徴としての公務につかれることがいかに厳しいものであったか、ご心労があったか、ということの証明のような言葉でもあったのです。

「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる、伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。」

平成25年のお誕生日の会見で陛下はこのように述べられています。

孤独なお立場に、皇后さまの存在がどれだけ大きかったか率直に述べられています。

 
 

今回は、このような言葉を述べられています。

「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。」

陛下は国民との対話を大切にし、国民との信頼関係を築いていくことに心を砕かれてきました。今退位を、受け入れてくれた国民に感謝の言葉を述べられています。

そして何より、皇后さまへの感謝の気持ちを示されています。

「自らも国民の一人であった皇后」という表現をされたのも、皇后さまが民間から嫁ぎ皇室の中で苦労をされてききた姿を、陛下もそばからご覧になりよくご存じだったからでしょう。また、陛下とともに歩むことで、象徴というものを一番理解し、陛下の進むべき道に対し、唯一一緒に寄り添えるお立場であったこと、そして温かい家庭を作り上げてくれたこと・・・数限りないサポートがあったことを感じさせていただきました。

 
 

将来の皇室への希望

陛下は会見を、将来の皇室への希望で締めくくられています。

来年5月以降は上皇となられるわけですが、これからは、「上皇とは何をするのか、しないのか」。二重権威とならないための「上皇像」を示されるのだと思います。

これまで作られた「象徴天皇像」と合わせ新たに「上皇像」を示されることでしょう。

陛下は「実践する心」と「ぶれない心」をお持ちの方ですから。

(執筆:フジテレビ 解説委員 橋本寿史)

橋本寿史
橋本寿史

フジテレビ報道局解説委員。
1983年にフジテレビに入社。最初に担当した番組は「3時のあなた」。
1999年に宮内庁担当となり、上皇ご夫妻(当時の天皇皇后両陛下)のオランダご訪問、
香淳皇后崩御、敬宮愛子さまご誕生などを取材。