12月29日に31歳の誕生日を迎えられた佳子さま。
2025年は公務の中で手話を使われる姿を宮内庁担当になって1年半足らずの記者も度々目にすることになった。
日本で初開催のデフリンピック
11月、日本で初めて開催された東京デフリンピック2025。
きこえない・きこえにくいアスリートによる「デフスポーツ」の国際大会で、今回は100周年記念大会だった。世界81の国や地域の選手が参加し、開会式には、秋篠宮ご夫妻、次女の佳子さま、長男の悠仁さまとご一家揃って出席された。秋篠宮ご夫妻は、2004年から選手らとの懇談を続けられるなど、デフリンピックとの関わりが深いことが知られている。
開会式の前日には、佳子さまが日本選手団結団式に出席された。佳子さまは選手たちに手話で「皆さまがこれまでの努力の成果を存分に発揮できるよう応援しています」とエールを送り、今大会のために開発された「サインエール」を選手とともに練習された。
佳子さまは、デフリンピックの大会運営を担う全日本ろうあ連盟に2021年から非常勤嘱託職員として勤務していて、今回の大会では視察や競技観戦が連日のように予定されていた。
しかし、開会式の3日後、宮内庁は佳子さまが新型コロナウイルスに感染されたことを発表。母・紀子さまと視察を予定していたデフリンピックの大会運営拠点施設「デフリンピックスクエア」の訪問を取りやめられた。
ある側近幹部は、佳子さまは「公的に行くことができなかったことを残念に思われていた」と話していた。
佳子さまは11月24日に、療養期間を終え8日ぶりに公務に復帰された。
空手競技の観戦では手話で関係者と挨拶を交わし、選手たちに手話で拍手を送られていた。また、同じ日に卓球競技も観戦、翌25日にはテニス競技観戦、さらに26日にはデフリンピックの閉会式にも出席するなど、復帰後は立て続けに会場に足を運ばれた。
デフリンピックが幕を閉じて少し経った頃、佳子さまが公務に復帰後、2度もお忍びで「デフリンピックスクエア」を訪問されていたことを知った。
運営拠点である「デフリンピックスクエア」は、母の紀子さまとお二人で視察する予定だった施設。公務の合間を縫ってお忍びで見学される姿を見た東京都職員らは、その熱心さに驚き、感銘を受けたという。佳子さまが、デフリンピックや聞こえない人・聞こえにくい人を大切に思われる姿勢が感じられた。
聞こえない人・聞こえにくい人への思いを感じるエピソードはまだある。
佳子さまは2023年から、手話スピーチコンテストなどで「手話は言語」として、自らは声を発せずに、手話に専念しておことばを述べられている。
日本では法律でも、手話は言語と明記されている。手話は音声言語である日本語と同じように、1つの言語ということだ。
2025年6月には、手話施策推進法が施行され、国民に広く手話に関する理解と関心を深めるため、9月23日が「手話の日」と定められた。
筆者も何度かこれまでに式典などで、手話でおことばを述べられる佳子さまの姿を見たことがある。ただ筆者自身は、手話にあまり馴染みがなく、手話をされる佳子さまを目で取材しながらも、手話通訳の声を頼りにおことばを聞いているため、「手話は言語」という実感をすぐには持てなかった。
“自然体”の手話
2025年10月の秋の園遊会。赤坂御苑で開催され、両陛下や秋篠宮ご夫妻、両陛下の長女・愛子さまなど、皇族方が出席された。各界の功労者などおよそ1500人が出席し、両陛下と騎手の武豊さん・佐野量子さん夫妻の“馬談義”が話題にのぼった。
その武さん夫妻の横には、佳子さまの勤務先の全日本ろうあ連盟元理事長の石野富志三郎さん夫妻の姿があった。両陛下を先頭に皇族方が一列に並び、出席者と懇談される中、佳子さまと石野さんのご懇談の順番が。
すると佳子さまは、さっと、両手で持っていた黒いバッグと白い手袋を職員に手渡し、笑顔で会話を始められた。
佳子さまは手話通訳なしで会話を続けられた。笑顔だけではなく、共感したような表情など、表現豊かに懇談される。石野さん夫妻との会話は、見ていてもスムーズで、自然体。何より、手話で会話する佳子さまが、いつもに増して生き生きとされているように見えた。
この時の佳子さまの姿は「手話は言語」を体現されていた。筆者の中でも、その意味が、腑に落ちていった。
佳子さまは、手話の式典のみならず、様々な式典で、「誰もが安心して暮らせる社会」「誰もが幅広い選択肢を持てる社会」というメッセージを繰り返し述べられている。その中には、どんな立場や境遇にある人でも自分らしく生き、互いに理解が深まってほしいという願いが込められている。
佳子さまが、その願いを込められて、日々の活動に取り組まれていることを実感する1年だった。
(フジテレビ社会部宮内庁担当 林理恵)
