「つたえる つなげる ヒロシマ・ナガサキ」
『平和を誓う手形』#41 被爆体験証言者 笠岡貞江さん(93)
被爆当時は進徳高等女学校の1年生でした。
【笠岡貞江さん】
「(入学後)2か月くらいは学校に行った気がする。でもその後はずっと(建物疎開)作業。8月6日は電気が来ない日で、だから行かずに家にいた」
当時は爆心地から3.5キロ離れた広島市中区江波で両親・祖母と4人暮らし。
【笠岡貞江さん】
「部屋に入った時に2m50cmくらいの窓ガラスがピカッと光った」
「何かなと思った瞬間にガラスが粉々に割れてゴーっと。ピカッと光ってドンで”ピカドン”とみんな言っていたが、私にとってはドンではなく、爆風の音ピカッと光って、ゴーっと来た」
両親は朝早くから広島市内に建物疎開作業へ出かけていました。
【笠岡貞江さん】
「仁保にいる親戚から『お父さんが家に来ている』と知らせがあって。母親は父と一緒に逃げていた時にはぐれてしまった」
父の姿は変わり果てていました。
【笠岡貞江さん】
「水を飲ませたら死ぬと聞いていたので、水を上げなかったのが心残り。ただ高熱でやけどには冷やしてあげないといけないと思い、家にあるキュウリやジャガイモをすりおろして体の上に乗せてあげた」
父は2日後に亡くなり、笠岡さん自身も苦難の日々が続きました。
【笠岡貞江さん】
「就職と結婚の差別は受けたような気がする。姉の姑が(見合いの)世話をしてくれて結婚はできたけど、(結婚した被爆者の夫)も35歳の時に脊髄にガンができて、亡くなった」
苦しみを抱えながらも2000年から証言活動を開始。
きっかけは当時、小学生だった孫や同級生たちの取り組みでした。
【笠岡貞江さん】
「被爆者のところで話を聞いて、その時に感じたことを絵や文に書いて発表してくれた。その時に子どもでも気づいたことを発表する、子どもでも出来るのになぜ私が出来ないのかと感じて話し始めた」
93歳となった今も依頼があれば精力的に自身の体験を語り続けています。
笠岡さんが手形のハトに込めて次世代に伝えたい想いとは?
【笠岡貞江さん】
『平和とは愛の心』
「1人では平和にできない。みんなが思いを込めて”愛の心”これが大事。1人1人が思いをみんなで繋げれば平和がやってくるのではないか。頭で考えるのではなく心でみんなが繋がるのが大事」
「つたえる つなげる ヒロシマ・ナガサキ」