10月7日に始まった「売茶翁と若冲」展。佐賀出身で日本に煎茶を普及させるきっかけを作ったとされる売茶翁の業績に迫る資料が展示されています。この展覧会に際し、書や文献を検証したところ売茶翁の茶に関して新たな発見がありました。県立美術館の福井館長に話を聞きました。

佐賀市蓮池町出身で煎茶の祖として知られる売茶翁。
僧侶として禅の教えを説きながら後半生は京都で茶を売り歩き当時上流階級の文化だった茶を身分の隔てなく広く普及させたとされています。

【野上】
「今年に入って売茶翁に関する新しい発見があったということでそれが佐賀の嬉野のお茶が京都でふるまわれていたんではないかというような認識でよろしいんでしょうか」

【福井館長】
「はい、売茶翁が京都で使っていたお茶についてはこれまではっきりしたことを言われてなかったんですが今回新たに見出した資料にですね、読んでいけば嬉野であったんじゃないかという風に考えることができるということです。詳しく申しますとこれまで売茶翁は自分の詩の中で京都でふるまっているお茶は”唐製”という言葉を使っていました。中国を指す”唐”の製品だという意味ですね」

これまでは肥前に長崎港があったことから”長崎港から輸入した中国製”という意味で売茶翁が使ったのではないかと解釈されていました。
しかし、今回出てきた別の資料を読み解くと新たな見方がありました。

【福井館長】
「”唐製は肥前でこしらえている”という記述を売茶翁自身が書いておりまして、唐製といわれているものは実は肥前製、肥前で作ったものだという記述が出てきたわけですね。嬉野のお茶は当時江戸時代に”唐茶”、中国を指す唐茶という風な名前で、嬉野のお茶ですけれど”唐茶”という名前で販売しておりましておそらく売茶翁が唐製という言葉で言っているのは嬉野の唐茶ではないかということです」

嬉野は江戸時代、蓮池藩領でした。
福井館長は、蓮池藩の出身である売茶翁が昔から馴染みにしていたお茶が唐茶、唐製であるということも含めると売茶翁が京都でふるまっていたのは嬉野のお茶と考えて良いのではないかと話します。

【野上】
「となると、当時たくさんの著名人、文化人にふるまっていたお茶も…」
【福井館長】
「嬉野のお茶。もしかすると若冲も嬉野のお茶を…という想像も広がるのかなと思っております。佐賀にとっては非常に良い発見であったんじゃないかと思っております」

お話を聞く中で、なぜ嬉野茶という言葉を使っていなかったのかという疑問がわきましたが、当時の最先端のものは中国由来のものだったそうです。
あえて唐茶と呼ぶことで異国情緒を醸し出す意図があったのではないかと考えられるそうです。

また伊藤若冲は売茶翁に多大な影響を受けたとされこの2人にスポットをあてたのは今回が初めてではないかということです。

「売茶翁と若冲」展は11月24日まで佐賀市の県立美術館で開かれています。

サガテレビ
サガテレビ

佐賀の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。