激動の時代に日本を引っ張り平和を愛した人生だった。
大分県大分市出身で第81代の内閣総理大臣を務めた村山富市氏が17日午前、大分市の病院で老衰のため亡くなった。101歳だった。これまでの功績などを振り返る。

大分県出身者として初の内閣総理大臣に就任
1994年、70歳の時に自民党、社会党、新党さきがけのいわゆる「自社さ」連立政権で県出身者として初めて内閣総理大臣に就任した村山富市さん。
戦後50年の節目には時の総理として初めて「侵略」や「お詫び」という言葉を使った村山談話を発表。そして、その翌年、総理を辞任。在任期間は561日だった。その後、社民党の党首などを経て、2000年に政界を引退した。
村山さんは、9月から大分市内の病院に入院していて17日午前、老衰のため家族などに見守られながら亡くなったという。101歳だった。

「苦しまず、安らかに息を引きとられた」
元社民党県連の職員で村山さんの最期を看取った安部逸郎さんは次のように話した。
ーー元社民党県連職員 安部逸郎さん
「村山さんの家に行って顔を見ると『おっ』と言って声掛けをしてくれたりとか、そんなに話はしないけど、少し前はまだしっかりとされていた。きょう午前10時くらいに容体が急変して、体調が悪くなってという話でバタバタだった」
(Q最期の様子は)
「本当に、別に病気で苦しむわけでもなくて、安らかに息を引きとられた」

また、TOSの取材に対し、村山さんの次女の中原由利さんは「県民の方々が長年父のことを支えてくださったことに感謝申し上げます」と話していた。
社民党県連によると、通夜・葬儀は近親者のみで行い後日、お別れの会を予定しているという。

内閣総理大臣在任中、歴史に残る様々な出来事が
県出身者として初めての総理大臣として活躍したほか、その親しみやすいキャラクターで大分県民から愛された村山さん。
村山さんは1924年3月3日、漁師の家に11人兄弟の8番目の子供として誕生。明治大学を卒業し大分県職員の労働組合で労働運動に取り組んだ。
その後、大分市議会議員、県議会議員を経て1972年に衆議院議員に初当選。日本社会党の委員長を務めていた時に自民党と新党さきがけの3党で連立政権を組む。
そして1994年6月、第81代内閣総理大臣に就任。
ーー村山元首相(当時)
「こういう場所で初めてご挨拶するものですから。 心臓のときめきを感じますけど も、いまの政治を改革する。そのために私で役に立つならその信条に応えられなきゃいかん。こういう気持ちで決意をしました」
在任中には歴史に残る様々な出来事が。1995年1月には阪神淡路大震災が発生。
またこの年の3月には、オウム真理教による地下鉄サリン事件なども発生し対応に追われた。

愛称は“トンちゃん”トレードマークの長い眉毛や人柄で人気に
そして戦後50年の節目に発表したのが村山談話だ。
ーー村山元首相(当時)
「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、 心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
時の総理として初めて「侵略」や「お詫び」という言葉を使い、注目された。
そして、村山さんといえばトレードマークは長い眉毛。愛称にちなんだ“トンちゃん”グッズも販売され話題に。
大分県からの初めての総理大臣誕生に地元も祝福ムードに包まれた。
里帰りした際は空港にも…そして家の前にも出迎える多くの人の姿があった。
しかし、1996年の年明け早々突然、その一報がもたらされる。
ーー村山元首相(当時)
「私は本日、内閣総理大臣を辞任することを決意しました」
総理を辞任。在任期間は561日だった。

政界引退後は地元のテレビ番組にも気さくに出演
2000年に政界を引退した後はTOSの番組にも気さくに出演し、豆腐を試食してくれたことも。
また、別の日のTOSのインタビューではこんな発言も。
ーー村山元首相(当時86歳)
「まさか総理になるなんて思ったことはない。僕の人生を振り返ってみたらまさにめぐり合わせの人生だなと」
そして2024年、歴代の総理経験者として3人目となる100歳の誕生日を迎えた。
ーー次女 中原由利さん
「朝は6時半ぐらいに起きてちょっと身支度してからお散歩に行って、早口言葉を言ったり、それから昔の自分の挨拶文を出してきて読んだり、総理大臣のときも自分で自分の靴下を洗っていましたよ」

激動の時代を生きてきた村山さん。
100歳を迎えた際には「日本がどこまでも平和な国であり続けることを願っています」とコメントしていた。
多くの人たちに愛された村山さんはいつも平和の大切さを私たちに伝えてくれた。

