特集です。
10月13日大阪・関西万博が閉幕しましたが、万博に行かれましたか?
日本国際博覧会協会によりますと、万博会場の夢洲は、2028年の2月末までに更地になり、パビリオンのうち、オランダ館などの4館は国の内外に移設され、再利用されることが決まっています。
このパビリオンの移設、55年前の大阪万博の時も行われていて、実はシンガポール館が宮崎県の、ある場所に移設されていたんです。
ヤシの葉で覆われ、左右が高く尖った形が特徴的な小屋。
1970年の大阪万博のシンガポール館です。
1940年の万博計画から今年の大阪・関西万博までの歴史をまとめた「日本万博全史」の中で、シンガポール館は1970年12月、宮崎市の県立青島亜熱帯植物園に搬入されたと紹介されています。
「日本万博全史」の作者でノンフィクション作家の夫馬信一さんに話を聞きました。
(ノンフィクション作家 夫馬信一さん)
「万博の記念公園の事務所というのがある。ここに1970年の大阪万博の資料が眠っていて、探しているうちにシンガポール館の顛末がわかってきた」
では、なぜシンガポール館が青島亜熱帯植物園に移設されたのでしょうか
(ノンフィクション作家 夫馬信一さん)
「この青島亜熱帯植物園というのはシンガポール植物園と姉妹植物園という形をとっていた」
みやざき公園協会によりますと1965年10月、青島亜熱帯植物園とシンガポール植物園は「姉妹植物園」を締結しました。
締結したのは、シンガポールがマレーシアから独立した直後。
夫馬さんは当時のシンガポールの情勢を考えると、宮崎にシンガポール館を寄贈したのには、切実な思いがあったのではないかと話します。
(ノンフィクション作家 夫馬信一さん)
「(シンガポールは)当時本当に産業もないし非常に心細い状況だったはずなんですよ」
「独立してすぐに姉妹関係を樹立してくれた縁とゆかりのある(青島亜熱帯)植物園にパビリオンを寄贈しようというようなことは、シンガポール側としては特別な思いがあったのではないかなと思います」
シンガポール館が移設された県立青島亜熱帯植物園。
現在は宮交ボタニックガーデン青島として、県民の憩いの場となっています。
(中村真菜記者)
「1970年の万博のシンガポール館が当時こちらの場所にありました。しかし平成6年台風の影響を受けて完全に倒壊してしまったということです」
宮交ボタニックガーデン青島の指定管理者、みやざき公園協会の吉田晋弥理事長です。
吉田さんは1979年から公園協会に勤めていて、シンガポール館のことをよく覚えていました。
(みやざき公園協会 吉田晋弥理事長)
「ちょうどここにありました。あまり大きくないんですけど」
「当時はここが通路で、まっすぐ沿道があってここにシンガポール館がどんっとありました」
当時の図面を見ると、シンガポール館は幅およそ9メートル、奥行およそ3メートルのこじんまりとした施設だったことが分かります。
(みやざき公園協会 吉田晋弥理事長)
「当初はですね、カフェというか休憩所というかジュースとかを提供したり、シンガポールの物品を販売したり、シンガポールとの親善を含めた中で販売をしていたと聞いております」
しかし、移設から24年が経った1994年、シンガポール館は台風により倒壊してしまいました。
(みやざき公園協会 吉田晋弥理事長)
「海から風が来て、台風で何度か倒れている。補修して、完全木造だったんですけど、鉄筋、鉄骨で作り直した。平成6年(1994年)に完全に倒れて、もう補修が難しいということで完全に撤去した」
シンガポール館は無くなってしまいましたが、ボタニックガーデン青島には、シンガポール植物園からブーゲンビリアなどの植物が贈られたり、技術的な意見交換をしたりと交流は今も続いています。
幻のシンガポール館は独立間もないシンガポールと日本の南国である宮崎が、その後、植物を通じて親交を育むきっかけとして大きな役割を果たしていました。