特集は「戦後80年 過去を知る未来に伝える」です。
太平洋戦争中、「秘密」とされた兵器の製造に延岡市から多くの女学生が参加しました。「お国のために」と製造に携わった女性に当時の思いを聞きました。
(寺原八千代さん)
「これ秘密兵器でね。もう絶対他言することはならんよっていうことで、もうその切れ端もね持ち出すことができませんでしたね」
約80年前、日本軍の秘密兵器の製造に携わった寺原八千代さん(97)です。
寺原さんは1928年に延岡市で生まれました。
教師を目指して県立延岡高等女学校専攻科に通っていた17歳の頃に、太平洋戦争の戦局が悪化。寺原さんは校長に対し「銃後の第一線で働きたい」と直談判しました。
(寺原八千代さん)
「か弱い女性たちが頑張ってもね、前を向くような戦ではございませんでしたよね。だけど、やっぱり何かしたい。何かお役に立ちたいという気持ちはみんなありましたね」
直談判からわずか数日後の1944年11月中旬、寺原さんたち専攻科の36人は、戦車や銃などを製造していた福岡県の小倉陸軍造兵廠に送られました。
そこで待っていたのが「マルふ」などと呼ばれた「風船爆弾」の製造でした。
工場には多くの女学生が動員され、福岡県や岐阜県などで作られた和紙をこんにゃくのりで張り合わせて気球を作っていました。
寒い冬に薬品などを扱うため、手がただれたり体調を崩す女学生も少なくありませんでした。
寮から工場まで片道1時間歩いて通った寺原さんたち。1日12時間の2交代制で、和紙の破れを確認する検査などを担当しました。
(寺原八千代さん)
「勝つか負けるかのね。瀬戸際ですから皆さん必死ですわ。自分たちは志願して行った組ですから、弱音は吐かれませんわね」
こうして作られたのが秘密兵器「風船爆弾」です。
(平和のまちミュージアム学芸員 小倉徳彦さん)
「こちらは風船爆弾の7分の1の模型になります。上の部分、直径10mの和紙でできた気球に爆弾が吊り下げられた形になっております」
小倉陸軍造兵廠の跡地に建つ北九州市の平和のまちミュージアムには、風船爆弾など当時の資料が展示されています。
風船爆弾は、偏西風に乗せて飛ばすことでアメリカ本土を直接攻撃することを狙っていました。
1944年11月から1945年3月までの間に千葉県など全国3カ所で約9000発が打ち上げられ、アメリカ本土に到達したのは約1000発と推定されています。
(平和のまちミュージアム学芸員 小倉徳彦さん)
「アメリカの国民の士気を低下させる、戦意を低下させる、逆に日本の国民の戦意を上げる、士気を上げるといったことが目標として設定されていました。アメリカの国民には、情報統制されて知らされていなかったというふうに言われています」
大規模な作戦だったにも関わらず、被害にあったのはオレゴン州でピクニックをしていた子供5人と妊婦1人の民間人とされています。
(寺原八千代さん)
Q民間人を殺傷していけないという感覚はどうだった
「もうないですね。もう破れかぶれ、もう終戦間際はね、もう破れかぶれ、敵も味方も本当に。(米軍が)来て、子供でも何でも空中から撃ったじゃないですかね。(延岡市の)島野浦あたりでも」
延岡市の女学生36人は4カ月半製造に携わり、1945年3月に学校を卒業。その後、6月29日に延岡大空襲に見舞われます。
(寺原八千代さん)
「焼夷弾が雨あられですね。家族中飛び出して愛宕山の防空壕に火の中をね、走って逃げましたわ。あとはもう一面焼け野原でしたね」
寺原さんの実家も全焼する被害を受け、延岡市内では300人以上が犠牲になったとされています。そして8月15日に終戦。寺原さんは悔しさを感じた一方、空襲の恐ろしさがなくなる安堵感があったといいます。
(寺原八千代さん)
「終戦になったときにね、ああ、よかった。もうなんか、ほっとしましたね。でも負けてよかったねって、あれ続いてたらどうなったであろうか、もう日本は無くなってたかもわからんよって、私たちは話したんですよ」
寺原さんは軍国主義の教育に問題があったと感じ、戦後は小学校の教師として40年間、子供たちに戦争の悲惨さなどを伝えました。
(寺原八千代さん)
「今生きてる人たちは、もう平和な世の中に生まれている人たちなんですよ。だから自分たちはこの平和が当たり前と思ってるけれども、二度と戦争は繰り返したらいかん。本当に繰り返したら日本はなくなりますわ。」