アメリカ軍の潜水艦が待ち受ける海。太平洋戦争で“輸送船の墓場”と呼ばれた「バシー海峡」では日本海軍の船が魚雷で次々と撃沈され10万人を超える人が戦死した。この海には今も多くの遺骨が眠っている。

兵や物資の輸送ルート「バシー海峡」

太平洋戦争で敗色濃厚となった日本は、フィリピンなどの東南アジアに大量の人や物資を輸送した。その主なルートだったのが台湾とフィリピンの間にある「バシー海峡」だった。

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この「バシー海峡」で戦死したのが、佐賀・小城市の住職・吉田宗利さんの父親。父の宗雄さんは日本海軍の駆逐艦「呉竹」の艦長を務めていた。

父がバシー海峡で戦死 吉田宗利さん(83):
兵隊を送らないといけない。たくさんの若者を乗せた輸送船をフィリピンに送らせようとした。それがバシー海峡を通るときに防衛するのが駆逐艦。うちの親父の仕事だった

米軍潜水艦の魚雷…“輸送船の墓場”

父の宗雄さんが乗っていたのが「呉竹」という駆逐艦。全長84メートル、重さ900トン。多くの輸送船を護衛していた呉竹。しかし…。

吉田宗利さん:
輸送船を守る駆逐艦だが、それをアメリカは待ち受けている。潜水艦で…

父がバシー海峡で戦死 吉田宗利さん(83)
父がバシー海峡で戦死 吉田宗利さん(83)

アメリカ軍の潜水艦は航行中の呉竹に魚雷を発射。吉田艦長がいた艦橋付近にも命中し、海に沈んだ。吉田艦長は32歳で戦死した。

潜水艦で待ち受けるアメリカ軍に多くの船が撃沈され、「バシー海峡」は“輸送船の墓場”と呼ばれた。

いまも海に眠る戦死者の遺骨

2025年8月3日、バシー海峡に近い台湾南部で慰霊祭が行われた。吉田さんを含む遺族など約150人が参列した。

バシー海峡に近い台湾南部で行われた慰霊祭
バシー海峡に近い台湾南部で行われた慰霊祭

吉田宗利さんの読経が厳かに響き渡る。
「バシー海峡に追悼の風吹く」「八十余年の時空を超えて国に殉じ身を挺する雄姿を偲ぶ」

バシー海峡では、10万人以上が亡くなったとされている。周辺の海岸には多くの遺体が流れ着いた。遺体は地元の住民が埋葬し、ほとんどが手付かずのままとなっている。

“人命”を国はどう考えていたのか?

吉田宗利さんは父をはじめ「バシー海峡」で失われた多くの命について次のように語る。

「死者10万人というから…。ここにたくさんの兵隊がどんどんつぎ込まれてそれをアメリカ軍が待ち受けていた。そうすると日本という国が“人命”をどう考えていたのか?『いくらかフィリピンに届けばいいや』という考え方なのでは…。そのために若い命がいっぱい失われた。日本人の生活が戦争によってどう狂っていったかが分かる」

終戦から80年。ふるさとの佐賀・小城市にある父の墓に、今も遺骨はない。吉田さんは、「二度と戦争をしない国」にすることを誓いながら月命日には欠かさずお経を上げている。

多くの命が失われた「バシー海峡」について、国は今後、埋葬されている遺骨の発掘調査を始める方針だ。台湾で行われる公的な遺骨の収集は50年ぶりだという。

(サガテレビ)

サガテレビ
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