終戦の日の8月15日は、まちの中に残る戦争の跡を探します。私たちが普段何気なく通り過ぎている場所にも戦争があったことを伝えるものが残っています。
毎日たくさんの人が歩く青葉区のクリスロード商店街。ここに、「仙台空襲爆撃中心点」とあります。
80年前、太平洋戦争末期の1945年7月10日、アメリカ軍が仙台を空から襲いました。「仙台空襲」と呼ばれています。123機の爆撃機がおよそ1万3000発の焼夷弾を落とし1400人近くが亡くなりました。
プレートは、このあたりが空襲の中心になったことを表しているのです。このプレートを仲間と置いた斎藤広通さん。仙台のまちには、空襲があったことが分かるものがまだまだあると案内してくれました。
仙台・空襲研究会 斎藤広通さん
「これが秋保石だよ。秋保石の蔵だよ」
青葉区国分町にあるこの蔵は、100年以上前の大正時代に造られたもの。太白区秋保で採れる「秋保石」を使っています。空襲の被害に遭いましたが、石でできていたため、壊れませんでした。
持ち主の方に特別に中を見せてもらいました。
志ら梅ビル 吉岡秀祐代表
「これは戦争前からある金庫。空襲の時に他のものは全部焼けてしまったんですが、これだけが焼け残りました」
空襲でも壊れなかった頑丈な金庫。中には土地の契約書が入っていたそうです。持ち主の吉岡さんはこの蔵を残している意味をこう話します。
志ら梅ビル 吉岡秀祐代表
「この建物は生き延びた。建物を見ることによって、昔のつらい戦争のことを思い出したり、そこをどうにか生き延びた人がいたことを、ぜひ思い出してほしい」
続いて訪れたのは、青葉区の西公園。ここに樹齢300年の大きなイチョウの木があります。仙台空襲で傷つきましたが、次の年にまた芽を出したそうです。
仙台・空襲研究会 斎藤広通さん
「江戸時代、明治時代、それから空襲を見てきた木ですので、どうしてここに、この大木があるのかなという時に、空襲を生き延びてきたことを思い出してほしい」
西公園の中にはさらに…。
仙台・空襲研究会 斎藤広通さん
「ここに防空壕があります」
防空壕は、空襲から身を守るため逃げ込む穴。戦争中たくさん作られました。この防空壕は入口がふさがれていますが、穴は今も残っています。
仙台・空襲研究会 斎藤広通さん
「ここで救われた人は結構います。とはいえ満杯になると中には入れなかった人もいるかと思います」
実は、仙台には今もあちこちに防空壕の跡があり、見つかっているだけでもおよそ60個あるそうです。
新妻博子さんは斎藤さんとも一緒に空襲の研究を続けています。新妻さんたちは2019年日本で一番と言っていい程大きな防空壕を仙台で見つけ、内部を撮影しました。二酸化炭素が多かったり、崩れる恐れがあったりして危ないため、場所は公表されていません。
新妻さんたちの調査で長さはあわせて200メートル以上という巨大なものだと分かりました。
小さな部屋のようなものもたくさんあります。仙台空襲の時は、100人以上が逃げ込み、戦後間もない頃は家を失った人たちがここで暮らした時期もあったそうです。
仙台・空襲研究会 新妻博子さん
「80年前に空襲がここであって、今そのまま、その物が残っていることを知ってもらいたい。大勢の人がここで救われた」
防空壕は、たくさんの命を救いましたが、新妻さんはそもそも防空壕がいらない世の中であることが大切だと話します。
仙台・空襲研究会 新妻博子さん
「こういう所に入るような命を危険な目に遭わせない。こういう所で守らなくてもいいような世の中をぜひ作ってほしい」
ところ変わって宮城野区の榴岡公園。ここには、かつて、旧日本陸軍が使っていた建物がありました。
一つが現在も残され仙台市歴史民族資料館になっています。資料館では当時の軍服や、銃の模型なども展示し、戦争や当時の生活を伝えています。これは兵隊のベッドを当時のサイズで復元したもの。
仙台市歴史民俗資料館 畑井洋樹さん
「当時の日本人の身長が今よりもだいぶ小さかったので、当時の日本人の身長に合わせるとだいたいこれくらいの形、これくらいのサイズ」
周りに神社の名前が書かれた日の丸。「大崎八幡」など、今もある神社が多く書かれています。
仙台市歴史民俗資料館 畑井洋樹さん
「8つの八幡神社にお参りして、御朱印をもらうとご利益がある。戦争へ行く身内の安全を祈願する思いがこもっている」
8月15日で戦争が終わって80年。当時を知ることは平和につながると畑井さんは話します。
仙台市歴史民俗資料館 畑井洋樹さん
「戦争がないに越したことはない。でも過去そんな歴史があったことは忘れずに、どうしてそのようなことになってしまったのかを振り返りながら、これからの未来を作っていく必要がある」
仙台のまちに今も残る戦争の跡。
仙台・空襲研究会 斎藤広通さん
「歴史ある建物や物に少し興味を持って耳を傾けてほしい。日常が非日常の生活だった。そういうことは、これからもないように願っています」