被爆者認定を求め岡山県を相手取り提訴した岡山市の女性がふるさと広島へ 「黒い雨」を体験した幼なじみとの再会

広島の原爆投下直後に降った放射性物質を含む、いわゆる「黒い雨」を巡る裁判。被爆者認定を求め岡山県を相手取り提訴した岡山市の84歳の女性は、7月、ふるさと広島を訪れ、広島で闘う原告団と交流した。

「どうぞ、足、気を付けて」

「やっと歩けるようになって3日ぐらいだが、同行させてもらった」
「同級生の皆さんにも助けてもらった」

広島県の西部、旧津田町、現在の廿日市市津田。岡山市に住む84歳の女性は、幼なじみが待つふるさとを訪れた。

「元気に来られたからうれしい」
「ありがとう」

岡山の弁護団の呼びかけで集まったのは、被爆者健康手帳の交付を求め広島県で同様の裁判を起こしている、旧津田町出身の原告団だ。

集まった旧津田町出身の「黒い雨」を巡る裁判の原告団
集まった旧津田町出身の「黒い雨」を巡る裁判の原告団
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女性は、2024年3月、岡山県に被爆者健康手帳の交付を申請したものの、「当時いた場所に黒い雨が降ったことが確認できない」として却下された。

手帳を交付されると医療費の補助などが受けられるのだが、女性は、却下の取り消しを求めて岡山県を相手取り、1人で裁判を起こした。

岡山の原告代理人・則武透弁護士は「何よりも多くの人が「黒い雨」を体験していることが一番客観的な証拠だと思う。それをぜひ岡山の裁判でもアピールしたい」と今回の広島訪問の意義を語った。

被爆者健康手帳
被爆者健康手帳

「黒い雨」が降って、お気に入りのピンクのブラウスが汚れて…岡山の原告女性の“鮮明な記憶”

これが岡山の女性の「証言」だ。

「私が「黒い雨」に遭ったのは4歳の時、母と一緒に墓掃除に行って、帰りに畑に寄って、そこで光ったり音がして、母がすぐ帰ろうと。帰り出したら風が吹いて、「黒い雨」が降って、ごみがいっぱい飛んできた。帰り道に、姉の作ってくれたピンクのブラウスがとても気に入っていたので、その服が「黒い雨」で汚れてきたので泣いていたら、母が「帰ったらきれいに洗ってあげるから」と言ってくれた」

証言をする岡山の原告女性(84)
証言をする岡山の原告女性(84)

原告それぞれが「黒い雨」を浴びたと訴える場所は同じ「地図」の中に…「うそだったらこんなこと(提訴)しない」

女性の同級生で、広島の原告団のひとりである植田憲子さん(84)。植田さんは被爆直後に降った“黒い雨”について、このように証言した。

「時間がどれくらいたったか分からないが、雨が降ってきた。いい天気なのに、雨が降り出した。暑い日だったから雨が降ってくるのがかえって気持ちいい感じだった」

植田さんは、旧津田町の原告団約40人の中心的な存在だ。原告たちが「黒い雨」を浴びたと訴える場所を聞き取り、手書きで地図に落とし込んでいる。その地図を元に、岡山の原告女性に「このお宮の上ですね」と問いかけると、「(皆さんのいた場所の真ん中)小学校の裏だから中心」と説明する。

植田さんは、自分と同じ立場だから、岡山の原告女性もうそは言っていないと確信する。

「・・・うそだったらこんなことしない」

原告たちが「黒い雨」を浴びたと訴える場所を聞き取り、記入した地図
原告たちが「黒い雨」を浴びたと訴える場所を聞き取り、記入した地図

新基準でもいまだ救済されない旧津田町の人たち…「ここまで被爆者認定されているのに」と別の原告団長が後押し

植田さんたちより前に立ち上がった黒い雨訴訟の元原告団長、高野正明さん(87)が後押しをしてくれる。

高野さんたち84人の裁判は勝訴し、「黒い雨」は国が主張する降雨域よりも広い範囲に降ったと認められた。高野さんは「ここまで被爆者認定されているのに」と、旧津田町の原告団や、岡山の原告女性が訴えを却下されてしまう現実を受け入れられない様子だ。

高野さんたちの勝訴のあと、国は新しい基準で被爆者を認定したが、それでも旧津田町の人たちは救済されなかったのだ。

新基準の範囲。旧津田町はその外にある
新基準の範囲。旧津田町はその外にある

広島の原告団それぞれに「黒い雨」の鮮明な記憶があって…“証拠”がない。説明できる建物も消えた

広島の原告・上本正雄さん(87)は「弟が2人いる。彼らが外で遊んでいた。しばらくしたら雨が降った、そのころ着るものも大したものではなく、裸で遊んでいただろう、母親に雨が降るから早く帰れと言われ、家に入ってしばらくしたらやんで、何だったんだろうと。にわか雨にしたらおかしな雨」と。

他にも・・・
「妹とおそろいのワンピース着ていた。ベージュに星のような柄。それが染みになっていた覚えがある」
「着ている服が茶色か黒かに(汚れた)。訴訟がある以前に、私が言っていたと。実家の嫁から母が言っていたと聞いた」
「どのくらいたったか、雨が降ってきて、小屋に、翌年に肥料にする芝を小屋に入れず軒下にみんなで運んだ覚えは、はっきりある」
「(黒い雨)の1日後、10日間ぐらい下痢」
「年齢が低いほどひどかった」
「発熱と下痢、すごかった。私も同じ」

それぞれの「黒い雨」の記憶は鮮明だった。しかし、誰一人、「黒い雨」に遭ったことを示せる物は、持っていないのだ。

広島の原告で高野さんの妻・鈴子さんは「酒屋の白壁が黒くなったのというのもあったが、小学校の頃はみんなそれを見に行った。原爆の時、黒くなった。酒屋が倒産して解体されて1つの証拠が消えてしまった」

黒い雨(広島平和記念資料館所蔵)
黒い雨(広島平和記念資料館所蔵)

他にも岡山で原告女性同様に「被爆者手帳申請」を却下されていた人が…

岡山の女性は「とにかく証拠がないから駄目だと言われたのがすごくショックだった。80年たって、どこ行ってもない」

「これだけ、40人が同じ証言をしているのに…」と、岡山の原告団の則武透弁護士。しかし、「少なくとも旧津田町については、これだけの人が立ち上がっているのが何よりの証拠だと思う。この力によって裁判でも突破していると確信した」

交流の中で、新たな事実も分かった。

植田さんによると、84歳の原告の女性のほかに、岡山県に手帳の申請を行ったものの1回却下され、「後がうるさくて、そういうことならしない」という、岡山にいる旧津田町出身の同級生もいたとのこと。それを聞いた則武弁護士は「諦めたんだ」と理解した。

「証拠がないから駄目だと言われたのが・・・」
「証拠がないから駄目だと言われたのが・・・」

高齢となった「黒い雨」訴訟原告団に時間はない 原告団弁護士が女性に代わって「岡山県の姿勢」に苦言

岡山の女性は「皆さんといろんなことが話せて、とても幸せ。私だけではない、皆さんのためにも 頑張らないといけない。これからもがんばります」と、裁判で争う勇気をもらった。

一方、岡山県は、「女性が黒い雨に遭った事実は認められない」として、第1回口頭弁論で、争う姿勢を示している。則武弁護士は「過去の清算であるとともに、未来に対するメッセージでもある。被爆80年に日本人はきちっと再認識するべきだと思う」と、岡山県の姿勢に対して苦言を呈した。

岡山の原告の次の裁判は8月19日に開かれる。高齢となった彼らには、裁判で闘う体力や時間はあまり残されていない。

(岡山放送)

岡山に戻る原告女性の手を握り・・・
岡山に戻る原告女性の手を握り・・・
岡山放送
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