特集は「戦後80年 過去を知る 未来に伝える」です。
終戦の5日前、小林市では、奉仕作業に向かう子供たちの列を米軍機が襲撃。
児童など10人の尊い命が奪われました。
学校に残る日誌と銃弾を受けた女性の証言から戦争とは何か考えます。

「『体錬大会』中止、運動会が空襲のために中止」西小林小学校に残る学校日誌。
学校での様子を教師が記録したもので、明治から昭和まで約100年分の冊子が今も保管されています。

こちらは太平洋戦争末期、昭和20年度の学校日誌です。
5月1日のページには「空襲警報が発令されている中で家庭訪問が行われた」と書かれていて、戦時下での学校生活が伺えます。
その日誌の中に、他とは違い欄外にもびっしりと文字が綴られているぺージがあります。

(日誌)
「突如トシテ敵機200米クライノ低空二降下シ、機銃掃射ヲナス」

昭和20年8月10日午前9時30分。
この日、奉仕作業に向かっていた西小林国民学校、現在の西小林小学校の児童たちの集団を米軍機の機銃掃射が襲いました。
太平洋戦争末期、県内各地では駅舎や港などが機銃掃射の標的に。
2014年4月21日に西小林駅の近くで起きたこの襲撃で、国民学校の児童5人を含む10人が犠牲となり18人が負傷しました。

(木佐貫ヒサエさん)
「犠牲となった子供の中には、沖縄からの疎開者もいた」

当時11歳だった木佐貫ヒサエさん91歳。襲撃の瞬間を今も鮮明に覚えています。

(木佐貫ヒサエさん)
「低空で飛行機が(来て)、その時は遊軍機だと思ってたんよね。みんなこうして見てたから(機銃掃射を受けて)手や頭がなくなった人もいた」

犠牲となった10人のうち7人は即死。木佐貫さんの友人は、亡くなる直前まで苦しんでいたといいます。

(木佐貫ヒサエさん)
「(友人が)お父さんに水がほしいほしいって言ったら、兵隊さんが水飲んだらだめよ死ぬよって言われて」

木佐貫さんも右腕と脇腹の間を銃弾がかすめ、大けがを負いました。

(木佐貫ヒサエさん)
「こことここの骨が見えていたそうですからね。治療のときは痛かったけどね。けがした当時は本当に痛くなかったです」

8月10日の学校日誌は、こう続きます。

「応急処置軍ヨリ非常ナル応援ヲ受ケタリ」
「午後見舞弔問ヲナス」

木佐貫さんたちが襲撃された場所は、当時も今も小学校の通学路です。
木佐貫さんの娘・加藤涼子さんに現場を案内してもらいました。

(江川琴実記者)
「お母さんからどういうふうに戦闘機が来たか、どのように伺っていますか」

(ヒサエさんの娘 加藤涼子さん)
「あの方向からずっと低空飛行で来て、この辺でだだだっとやられた」
「母が言うにはパイロットと目が合うくらいの近さだったと聞いています」

犠牲となった10人を悼む石碑が建てられている西小林小学校。当時の出来事を子どもたちに伝える慰霊集会が毎年開かれています。

(校長先生の説明)
「悲しい悲しい出来事の中、これを記録しておかないといけない、残しておかないといけない、そういった思いで枠の外にもいっぱい文字が残されています」

あの日の経験が描かれた絵は、子供たちの目に触れるようにと去年、校長室から階段の踊り場に移されました。

(児童は)
「僕はもう二度と戦争をしたくないと思いました」

(児童は)
「人とか自分の命をもっと大切に扱って、相手の気持ちとかがよくわかる人になりたいです」

(西小林小学校 谷之木智子校長)
「平和を願うその思いを持ち続けることができるように、それを(子どもたちに)伝えていきたいと思っています」

終戦から80年、いま木佐貫さんが伝えたいことは…。

(木佐貫さん)
「なんもならんですよね、戦争は。何か良いことがあるなら教えてもらいたいと思います」「戦争は何もならない、不幸だけが残るんだということを一番伝えたい」

テレビ宮崎
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