8月13日、終戦のわずか2日前に47人が犠牲となった「長野空襲」。それまでにも空襲に備えて建物を取り壊すなど、戦争は市民生活に影を落としていました。終戦の年、13歳だった男性の証言です。


観光客などで賑わう長野駅前。

80年前の写真に写るのは通りのあちこちにある大きな穴。空襲に備えた防空壕です。

北沢理一さん:
「掘ったんだよ、まじめに。1ヵ月以上かかったね。毎日動員だよ」

長野市の北沢理一さん93歳。

終戦の年の5月に鍬とシャベルを手に防空壕を掘ったことをきのうの事のように話します。

北沢さんは善光寺の門前で130年続く薬局の4代目。今も現役の薬剤師としてお客を迎えます。

壕は、店のすぐ前にありました。大きさは縦5メートル、幅3メートルほどで、両側に階段がありました。

北沢さん:
「20人くらい入れて、両側に腰掛け、片側にトイレがありました。穴にかめを沈めるだけのものでしたが。屋根は土を盛るんだけど、材木を2本渡して屋根の串にして、小さな木を組み合わせて間に土を入れる。掘ったのは40歳過ぎからの男性、女性、高齢者も含めて、それと中学生。ざるに入れた土は重いんだよ」

若い男性が戦地に赴く中、残った者たちが手作業で掘ったのです。

善光寺と長野駅を結ぶ「中央通り」には防空壕が20か所近く掘られました。


北沢さんは当時、国民学校に通う13歳。「軍国教育」で育ち、日本の勝利を疑っていませんでした。

北沢さん:
「出征する人が長野駅前まで歩く、我々が集団で囲んで駅まで行って万歳する。全員兵隊になるのが当たり前、私も兵隊に行くつもりでいました」

しかし、真珠湾攻撃から1年半後、少年に「敗戦」を予感させる出来事がありました。

北沢さん:
「山本五十六長官が戦死したこと、続けてすぐアッツ島が玉砕したこと。私は新聞を切り抜いて全部持っていたから、はっきり覚えているんです。『この先どうなるんだろうな』とは思いましたけど口には出せませんでした」(※山本連合艦隊司令長官戦死1943年4月、アッツ島玉砕は5月)

父は既に他界し、祖父は松代に疎開していて、母と姉との3人暮らしでした。

姉が通う女学校は軍服の縫製工場になり、北沢さんも長野飛行場を拡張する「勤労奉仕」に明け暮れます。

北沢さん:
「2時間くらい歩いて松岡の飛行場まで行って、畑を壊して元々植えてあった麦をよその場所に移して滑走路を造ったんです」

食料や生活必需品は全て「配給制」で、我慢の日々が続きました。

北沢さん:
「夜は一家で一つの部屋に集まって、60ワットの電球の下で勉強したり縫物をしたり。電灯の光が外に漏れないよう風呂敷や黒い布で囲ってね。街の雰囲気は仲良かったね、住民同士助け合ってたね、みんな仲良かったよ」

北沢さんが見た戦時下の長野の街を軍の「情報統制」下で写真に撮り続けた人がいました。

信濃毎日新聞社の記者だった故・川上今朝太郎さんです。

長野市公文書館元職員・西沢安彦さん:
「命がけで写真を撮って、フィルムなんかも隠して、そういうものです。軍の検閲で没収されず川上さんが個人として守り通した、そういう記録なんですよ」

そう語るのは、長野市公文書館の元職員、西沢安彦さんです。戦中の資料は、土蔵などに密かに保管されていた物が多く、空き家の整理などで見つかることもあるといいます。

西沢さん:
「戦時中の資料は焼却しちゃっているんです、軍の命令ですからね。例えば押し入れや土蔵、箪笥の中で埃だらけになってる中にあるとかね。まとめて可燃物のごみで出しちゃいましょうという話も聞いたことがありますから、そういう資料が残るか残らないかというのも偶然というか、貴重な記録ですから、いっぺん失われたら二度とそれはない情報。私たちが共有し文化的財産、遺産にしていく必要がある。そこから常に学ぶことをしていかないと」


終戦の年ー。

大門の薬局の北沢さんは訓練で近所の旅館に滞在していたパイロットと仲良くなります。

北沢さん:
「特攻隊だったの。井村さんという伍長が17歳。その人と仲良くなってね。飛行訓練やるとすごいんだ。藤屋さんの屋根ぐらいまで下りてくる、グーって。それで舞い上がっていく」

4歳年上で兄のような存在でした。

北沢さん:
「『俺、明日行くよ』そう彼が言ったの。九州の基地へ行って、いよいよ爆弾つけて沖縄へ飛ぶんだよね。戦争が続けば俺たちも兵隊に引っ張られると思ってたから悲壮感はなかった。私は『じゃあ俺、日の丸を振るよ』って」

翌朝、5機の飛行機が、屋根に登って待っていた北沢さんの上をゆっくりと旋回しました。

北沢さん:
「井村伍長だけ編隊から分かれて、もう1回まわってくれた。そのまま飛んで行った」


戦争も末期になると地方都市も空襲に遭うようになっていました。

北沢さん:
「焼夷弾が落ちた時のために、どの家も砂袋と水を入れたバケツを用意してあって、寝るときにはゲートル巻いてるし、すぐ飛び出せるように。もっとも、履いているものは草履なんだよ。革靴も履きつぶし、ゴム長靴もない」

7月、市街地で始まったのが、「建物疎開」です。郵便局や銀行を空襲による火災から守るため、周辺の建物が取り壊されました。

北沢さん:
「のこぎりで太い柱に筋を入れてロープを掛けて人間の力で引っ張って倒した。長野駅の周りなんか惨憺たるものだったよ」

駅前の如是姫像も、金属供出で消える

その頃、北沢さんは、藤屋旅館にいた飛行機の技術者に警告されます。

北沢さん:
「『防空壕に入っちゃいけないよ』って言われたんだ。『市街地が空襲されると周り中が火の海になるって。防空壕に入った人は皆、蒸し焼きだって。気づいた時には脱出できない』って」

そして、8月13日。

北沢さん:
「きれいな飛行機だなと思ったら、★(※米軍)のマークがわかった。8機の編隊が建物の向こうに隠れたと同時にドカドカって音がして」

北沢さんと家族は防空壕に入らず、店の品物を荷車に積んでなじみ客の所へー。

逃げる途中、飛行場から炎が上がるのを目にしました。

北沢さんの家に被害はありませんでしたが、この「長野空襲」で47人が犠牲となりました。

その夜ー

北沢さん:
「原子爆弾が落ちるんじゃないかっていう、噂とも言えないデマが流れた。8月13日の夜に。大八車に布団積んで、子ども積んで、年寄り乗せて、おんぶして。逃げる列が延々たるもんだよ。とうとう家でも『どっか行かなきゃ』『広島に落ちたのと同じ新型爆弾が落ちるって話だよ』なんて」

そして、終戦ー。

大学で薬学を学び、結婚して家業を継いだ北沢さんは店と家族を守りながら戦後を生きて来ました。

93歳の今、思うことはー。

北沢理一さん:
「歴史教育はうんと大事だし、平和は大事だよ。外交をしっかりやってもらいたい一番は。そうすれば戦争はない」
(Q戦争を知る人が本当に少なくなっていますが)
「戦争を知る世代がもっと声出していいね。生きてるうちに」

長野放送
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