終戦80年の節目に合わせ、鳥取市青谷町で開かれている戦争をテーマにした展覧会。地元出身の戦争経験者やその親族などから寄せられた史料をもとに戦争の記憶を後世に伝えます。
そうした資料の提供者の1人が、学童クラブの指導員を務める82歳の女性。
今の子どもたちに伝えたい、身近にあった戦争と平和とは。

鳥取市青谷町の「鳥取市あおや郷土館」で開かれている展覧会『戦後80年 戦争を知らない人たちへ』。
地元にゆかりのある戦争経験者やその家族から寄せられた戦争に関する資料約100点が紹介されています。

浦島隆子さん:
この赤ちゃんが私です。隆子です、隆子。

会場で出会った浦島隆子さん(82)。
この展覧会に資料を提供した1人です。

Qお父さんも写真でしか見たことない?
浦島隆子さん:
そうです。私がすごく感激しているのが、母親がようこれを残しとったなっていう感じです。私は全くわからないからね。

浦島さんの父、益重さんは青谷町出身。
終戦間際の昭和20年7月、当時のビルマ、現在のミャンマーで戦死しました。
31歳でした。
益重さんは、昭和18年に召集。
出征したあとの4月に、隆子さんが生まれました。
戦地に赴く途中、益重さんが、妻の正子さん、隆子さんの母にあてた手紙には、「生まれた娘は『隆子』と名づけてほしい」…。
愛娘への切ない思いが綴られています。

浦島隆子さん:
一目顔が見たいけど、お国のためだと思ってあきらめて子どもの顔を見ずに2時ごろ倉吉出発する。というのを…母親がなぜかこれを私にずーっと、とにかくこれ大事なものだと言って持たせていたのです。

浦島さんは、町内の学童保育「海っこ児童クラブ」の指導員を務めています。
2007年に浦島さんが中心となって立ち上げました。

児童:
隆子ばあば。

浦島隆子さん:
あ、目薬?

子どもたちからは“隆子ばあば”と呼ばれ、慕われています。

Q“隆子ばあば”はどんな人?
児童:
やさしくて学童のリーダーで、とてもいいと思います。

児童:
やさしいけど、怒ったらこわい。

浦島隆子さん:
まあ、大変、大変だわなぁ!

この日、児童クラブの子どもたちが訪れたのは、「鳥取市あおや郷土館」。
展覧会の会場です。

学芸員:
こちらの方が隆子ばあばのお父さん、浦島益重さん。隆子ばあばのお父さんは、隆子ばあばのお母さんや隆子ばあばに会いたいと思いながらも、昭和20年、今から80年前の7月11日に、残念ながらミャンマーの地で亡くなりました。一度も隆子ばあばに会えることなく。

浦島隆子さん:
母親が言うには、父親はまっすぐな人で、いつも素直な元気なよい子に育ててくれといつも言われてたので、そういう風にならんといけんて。私はでも幸せ、幸せかもわからん。こうして学童の子どもたちもみんな隆子ばあばといってくれたり。まあ幸せかな。

浦島隆子さんが、子どもたちに自分のこととして戦争の話をしたのは、これが初めてです。

児童:
戦争が本当に恐ろしいなって思った。


児童:
戦争のために頑張った人たちもすごいと思うし、隆子ばあばのお父さんも戦争に行っていて、亡くなっちゃたからかわいそう。

Q青谷にもこういう戦争があったけど、どう思う?
児童:
信じられない。

児童:
今まではあまり戦争のことを詳しく知ってなかったけど、こういう人が寂しい思いをしたり人に会えなかったりしたら悲しいから、戦争は本当にやめてほしい。

児童:
平和だし、友達とかいっぱいいるしうれしい。このまま(平和が)続いてほしい。

隆子ばあばを通じて、子どもたちは、身近にある戦争の影に気づいたようです。

浦島隆子さん:
この人たちが犠牲になって、今の世代を、私たちを守ってくれていると思う気持ちがあります。この子たちに悲しい思いをさせたくない、平和な暮らしをしてほしいと思います。

児童クラブがある小学校の敷地にたたずむ「忠魂碑」。
そこには、地元から送り出された多くの戦没者と並んで浦島隆子さんの父、益重さんの名も刻まれていました。
終戦から80年。その顔を間近に見ることが叶わなかった娘の今を、益重さんはどんな思いで見ているのでしょうか…。

TSKさんいん中央テレビ
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