長崎での被爆体験を伝える「語り部」として活動する大分県宇佐市の88歳の男性がいます。
戦後80年のこの夏も地元の小学校で平和授業を行いました。
80年前、アメリカ軍が長崎に投下した原子爆弾。その時の光景は当時8歳だった少年の記憶に焼き付いています。
◆奥城和海さん
「白い玉、落下傘みたいなものはピカーと光った。目はくらむは、とにかく長崎の町を全部光が走った」
長崎で被爆し、今は宇佐市で暮らす奥城和海さん88歳です。当時は爆心地から3キロほど離れた場所にいて、無事でしたが、爆風で吹き飛ばされたといいます。
◆奥城和海さん
「そのまま身も心も打ちのめされた。意識はわからなかった」
奥城さんは終戦の翌年、母親の古里の宇佐市に家族で移り住みました。小学校教師を退職後、70歳くらいから、被爆体験の「語り部」の活動をしています。これまでに行ってきた平和授業は130回以上。8月8日も地元・宇佐の駅館小学校で自身の体験を語り、核兵器廃絶を呼びかけました。
◆奥城和海さん
「絶対に二度とあの苦しみをほかの誰にも味わわせてはならない。二度と核兵器を使わせてはならない。 被爆者を作ってはならないという願いがある。核兵器と人類、人間は絶対に共存できない」
◆女子児童
「核兵器という恐ろしいものがあると知って、 今戦争が日本にない時代に生まれてよかったと思った」
◆男子児童
「これからは喧嘩などを無くそうと思った。今自分ができることをしっかりとやる」
◆奥城和海さん
「語り部の仕事ができることは被爆者にとって使命だと思っている。その使命を全うしなければならない」
平和のために語り継ぐ…
奥城さんは命ある限り語り部を続けていくと話しています。