広島市に原爆が投下された2日後、福山市では市内中心部が焼き尽くされる空襲がありました。自らの体験を次の世代につなごうとする男性の思いに迫りました。
福山市の中学校で生徒に語りかける近藤茂久さん、91歳。
80年前の8月8日、福山市が甚大な被害を受けた福山空襲の体験者です。
【近藤茂久さん】
「その当時は木造の家がほとんどですから、またたく間に火の海になる。消すことができないんですから」
アメリカ軍の空襲に見舞われたのは11歳のころ。
当時の自分の年齢と同じくらいの子供たちに福山の地で起きた惨禍を伝えました。
【講演を聞いた生徒】
「経験した人だからこその恐ろしさや、そのときに感じたことが知れて良かったです」
福山空襲があったのは1945年8月8日。
広島市に原爆が投下されたわずか2日後のことでした。
91機もの爆撃機が飛来して、午後10時半ごろから始まった空襲は1時間続いたとされています。
18万発もの焼夷弾が市街地に降り注ぎ、市内のおよそ8割が焼けました。
犠牲者は分かっているだけで355人、負傷者は864人にのぼりました。
空襲があった8月8日の夜、近藤さんは福山駅からおよそ700メートルほど離れた古野上町の自宅にいました。
爆撃機の飛来に注意を促す警戒警報に聞き、家族4人で自宅そばの防空壕に避難したといいます。
【近藤茂久さん】
「今は区画整備でいい道路になってるけどね。昔はこんないい道路でなかったと思うんだけど、この石垣だけは昔のままじゃ。この貝塚は、空襲の歴史をよう知っとるよ」
今は駐車場になっているこの場所に防空壕がありました。
防空壕に避難してしばらくして・・・聞いたことのない爆音が辺りに響きました。
爆撃機、B29です。
【近藤茂久さん】
「照明弾が落ちて明るくなって、バラバラバラバラ焼夷弾が落ちだして。『おい空襲だ』いうことでもう出るな言うて、あの防空壕の中で(周囲が)焼け始めて。ときどき覗いて見るわね。福山のまちが焼けよる。そうしてまた防空壕の中入って、そうしたら焼夷弾が一発ころげて入った。この辺が焼けだした。(転げ落ちてきたときのみんなの様子は)もうそら慌てて逃げる。片一方のドアから、あの入り口から転げて入るんだから火を吹きよるんだから。
これはもう、どんどん。その時、私もやけどしたんよ」
真夜中なのに外は炎で明るくなっていました。
父親の先導で近くの小川まで走って逃げたといいます。
「阿鼻叫喚の言葉の通りだと思う。泣き叫ぶという。お父さんを呼ぶ。お母さんを呼ぶ、子供を呼ぶ。もう本当にね、みんながそういう声だな。もう耳にこびりついとる。今でも」
近藤さんが避難した先の小川の中で見たのは焼け落ちていく福山城の天守閣でした。
【近藤茂久さん】
「周りがみなぺちゃんこになって焼けよるんだから、ここからようみな見えるんよ。『おい、お城が落ちるぞ』『焼けよるぞ』と言いよったんじゃけえね」
近藤さんその福山空襲の1週間に空から降ってきたある紙切れのことを話してくれました。
【近藤茂久さん】
「棒でこう取って『お父さんこういうのがあったよ』言うたら、貸しなさいと取られただけで、読める力があれば良かった。六年生だから多少読めたと思うんだけどね。漢字が書いてあっても」
【福山市人権平和資料館・寺地靖仁 副館長】
「空襲の目的は軍需工場と軍事施設を狙いますよと、市民の皆さんは逃げてくださいというような内容が書かれています」
福山空襲の悲惨さを今に伝える福山市の人権平和資料館には上空からまかれたビラが保管されています。
空襲が予告されても、当時の法律では逃げてはいけないと定められていたといいます。
【福山市人権平和資料館・寺地靖仁 副館長】
「勝手に自分だけ逃げるというのはなかなかできない。そういう状況だったというのは聞いていますね」
資料館には空襲で落ちてきた焼夷弾も展示されています。
【福山市人権平和資料館・寺地靖仁 副館長】
「防空壕の中に入っていても、天井を突き破って直撃弾でやられたという記録がたくさん残っていますし、中の火薬は約2000℃の炎が縦に噴き出るという仕組みになっています。なので、かなり殺傷力は強いですね」
アメリカに残る資料には軍需工場や軍事基地があったため、福山が狙われたとされています。
しかし、空襲の被害を示す地図を見ると目的がそれだけではないことが一目瞭然です。
【福山市人権平和資料館・寺地靖仁 副館長】
「アメリカ軍が実際に狙っていたのは軍需工場や軍事基地ではなくて一般市民が住んでいる中心部を狙って無差別の爆撃をしたというのがこの地図からはっきりわかりますね」
近藤さんがつらい空襲の記憶を若い世代に話すようになったのは10数年前から。
体験者が一人また一人と減っていく中、空襲があったことすら知らない人たちが増えていることに強い危機感を覚えたといいます。
【近藤茂久さん】
「子供が『広島の原爆の話を聞くけど、福山は空襲で焼けたの』というような言葉を言った時に、『自分の子供、こんなこと言うようじゃ伝えなきゃいけん』と思った。これは子供に伝えとかなきゃいけない」
「生の声で話すのは、もう僕らの時代が最後。僕は何年生きるかわからんけど、最後よ。戦争しちゃいけん。戦争はほんまむごい。だから、今のうちに一人でも多くの人に伝えたいという気持ちは強いね。それが僕の、これからの人生の、やっぱり一つのお仕事だと思っとる。伝えることがね」