FNNでは「戦後80年 今平和ですか」と題し、平和の現在地を探るキャンペーンを展開しています。
28日にお伝えするのは、被爆した工場から日本の伝統美を世界に発信している広島の老舗メーカー・歴清社です。
広島市の郊外を歩いていると目に入ってきた、工場から突き出した煙突。
1945年8月6日の原爆投下から間もない時に撮影された写真にも、この煙突が映されていました。
歴清社・森下祐加さん:
(当時)今自分がどこにいるの分からない状況に陥った方がたくさんいた。そんな時、この煙突が残ってたことにより、ここが「あ、この工場のあった場所だ」と認識する手がかりになった。ここに人がすごく集まってきた。(最近では)被爆経験された方がここに来られ煙突に抱きついて涙を流された。
当時の記憶と、焼け野原からの再出発の象徴に。
歴清社・久永朋幸代表(被爆3世):
何もないところから、頑張ってここまでやってこられる。人間の力はすごいんだと伝えていきたい。
この煙突の元で今、日本の伝統文化の継承と若い感性が融合した新たな発想で歴史を守る取り組みが行われていました。
1905年創業、金箔(きんぱく)や銀箔(ぎんぱく)の壁紙を製造する老舗メーカー・歴清社。
特徴は、厚さおよそ0.0004mmという極薄の箔(はく)を手貼りしていく伝統工芸技術“箔押し”。
神社仏閣の他、ホテルや商業施設など様々な場所で活用されています。
そんな歴清社のショールームの奥にある扉を開き進んでいくと、雰囲気は一変します。
暗がりから見えてきたのは「第二危険物倉庫」と書かれた建物です。
歴清社・森下祐加さん:
こちらの倉庫が被爆建物の倉庫になります。中の様子、レンガの部分だったりは当時のまま。
爆心地から約2.2kmの位置。
当時この付近で残ったのは煙突と、このモルタル製の倉庫だけでした。
歴清社・森下祐加さん:
(当時も)箔を管理してた倉庫。いわば“歴清社の金庫”のような役割。
被爆後も立ち退くことはなく、近くの小学校の廃材を再利用して工場を建て直し、その姿は今も変わっていません。
歴清社のクリエイターは「広島県人として小学校の時から原爆の日は学校に行き、みんなで黙とうをした。今、自分がこういう(被爆建物がある)場所で仕事ができるというのは、誇らしいじゃないですけど、貴重な体験じゃないけど、そういうのをさせてもらってる」と話しました。
世界に誇る日本の美意識と伝統を守りつつ、私たちの日々の生活にもちょっとしたきらめきをと新たな雑貨の開発などの取り組みを開始。
今では、“メイド・イン・ヒロシマ”として海外にも販路を拡大しています。
そんな中「戦後80年 いま、平和ですか」という問いかけに久永朋幸代表は「世界各地で戦争起きている中、平和ですとは私は全然思わない。我々ができること、箔だからこそできるのは“心を豊かにする”“心を穏やかにする”のもそう。世界に対して広島で作ってるんだとアピールさせてもらいながら、少しでも世界が平和になってほしい」と話します。
長く受け継がれてきた歴史をみつめながら未来を創る。
そのひとつの象徴とも言える場所。
歴清社・久永朋幸代表(被爆3世):
被爆建物を所有しながら、今こうして工場を運営させてもらっている。そこを守るというより、今働いているメンバーを守ろうと思ってますし、それが必然的にこの工場を守ることにつながる。(人も建物も)守るために新しいことをしないと守ってもいけない。