プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

高校時代は浪商高校(現・大体大浪商)のエースとして“ドカベン”香川伸行氏とバッテリーを組み、センバツ準優勝、夏ベスト4に輝いた牛島和彦氏。フォークを武器に中日・ロッテで主に抑えとして活躍し、通算53勝126セーブ。最優秀救援投手1回。巧みな投球術で打者を翻弄した頭脳派右腕に徳光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

9回2死から劇的同点ホームラン

浪商が優勝候補の一角として臨んだ1979年の夏の甲子園、1回戦の相手は埼玉の上尾高校。エースは後に中日で牛島氏と同僚になるアンダースロー投手・仁村徹氏だった。浪商は8回が終わって2対0とリードを許す苦しい展開だった。

牛島:
浪商ってアンダースローに弱い。軟投派に弱いんですよ。仁村の埼玉県大会の防御率は0点台なんですよ。案の定打てなかったんです。全く打てない。

徳光:
敗色濃厚だったんですよね。

牛島:
そう、そう。それで、9回2アウト一塁で僕に回ってきたんです。香川がセカンドでアウトになって、僕の横を通り過ぎてベンチに戻っていったんですけど、そのとき半分泣き始めてたんです。

徳光:
香川さんが。

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牛島:
それを見て悔しくて。「俺のこと全然信じてないな。俺だってたまには当たるかもしんないやろ」みたいな。それで、「インサイドから来るカーブを待とう、それ以外だったら振らない」と決めて待ってたら、本当にインサイドからカーブがやってきた。2球目です。バーンって打ったらホームランだったんです。

浪商は牛島氏が9回2アウトから放った起死回生の2ランホームランで同点に追いつくと、延長11回に山本昭良氏のタイムリーヒットで1点勝ち越し、3対2で勝利した。

徳光:
その試合を見てたんですよね。ちょっとバットを短く持ちませんでしたか。

牛島:
気持ち持ってると思います。

徳光:
そうでしたよね。

牛島:
でも、高校のとき、ホームランはその1本しか打ってないんですよ。

初戦を延長11回完投で勝利した牛島氏は、2回戦、3回戦も完投勝利。3試合とも2桁奪三振を記録していた。準々決勝の比叡山高校(滋賀)との試合では、4試合連続2桁奪三振の記録がかかっていたが、6回無失点でマウンドを降りた。

牛島:
6回で8三振取ってたんですけど、監督が「来年のために2年生のピッチャーに投げさせてくれへんか」って言ってきたんで、「どうぞ」って言って。

徳光:
そこでは逆らわなかったんですか。

牛島:
逆らわないです。そこは逆らわなかった。監督に一つ借りてますから(笑)。

徳光:
「黙って見とけ」がありましたからね (笑)。

続く準決勝の相手は池田高校(徳島)。2対0とリードを許して最終回の攻撃を迎えた。

牛島:
ノーアウト二塁一塁で、僕の打順が回ってきて、ベンチのサインを見たらバントなんですよ。本当は「分かりました」っていうサインを返さないとダメなんですけど、知らんふりをしたんです。

徳光:
しましたか。

牛島:
「いや、分かんないです」みたいな感じで。そしたら監督に呼ばれて「打ちたいか」って聞かれて、「打ちたいです」って答えたら「じゃあ、打て」。でもゲッツーやったんです。それで負けたんですよ。

徳光:
あぁ、そうですか。

牛島:
わがままを2つ言って1個は返した。1個は借りたままなんです。

徳光:
今日まで借りたまま。バントせずに打ちたかったのはなぜなんですか。

牛島:
ここでバントして2点取って延長戦になったら、また200球くらい投げることになる。引き分け再試合になったら翌日、そこで勝てたら翌々日も投げなあかん。次の日もあるので「同点は嫌」って思ったんです。

徳光:
なるほど。

牛島:
決着つけるか負けるか。でないと、自分の体がもたないと思ったんです。

大人気…少女雑誌の表紙にも

徳光:
このころの人気はすごかったですよね。

牛島:
そうですね。盛り上がってましたね。

徳光:
本当に熱かった。“ドカベン”香川捕手がイケメンだったら、これほど話題にならなかったと思うんです。牛島さんがイケメンで、香川さんがマスクを取るとまさに“ドカベン”じゃないですか。すごい人気だったもんね。

香川氏は、水島新司氏の人気野球漫画「ドカベン」の主人公・山田太郎に体型が似ていて、キャッチャーでスラッガーという共通点もあったことから“ドカベン”の愛称で親しまれた。バッテリーを組んだ牛島氏も、山田太郎の相棒ピッチャー・里中智と同じく細身で端正な顔立ちだったこともあって、2人は絶大な人気を博した。

徳光:
手紙とかも届いたんですか。

牛島:
届いたみたいですね。そのときにはもらえなくて、最後の夏が終わって学校からもらいました。段ボール10個分くらいありました。

徳光:
たしか少年雑誌の表紙とかにもなってませんでしたか。

牛島:
はい。少女雑誌でもなりました。「セブンティーン」とか「プチセブン」とかしょっちゅう載ってましたね。

徳光:
高校球児がすごいですよね。香川さんとのバッテリーは阿吽の呼吸みたいなものがあったんですか。

牛島:
ありましたね。でも香川はブルペンには来ないんですよ。僕、3年間でブルペンで受けてもらったことはないですよ。ずっと試合で組むんで、結局150試合くらい一緒にバッテリーを組んでるから、別に練習で受けなくても…みたいな感じでしたね。

徳光:
なるほど。あまり会話はなかったんですか。

牛島:
ないですね。

徳光:
そうなんですか。雑誌の写真なんか拝見しますと、お互いにプライベートでも仲がいいのかなと思いました。

牛島:
あれはリクエストされます。「肩を組んでくれ」とか、「握手してくれ」とか、「香川君は牛島君を抱っこして」とかね。

徳光:
そうなんですか(笑)。

「パ・リーグお断り」の理由

徳光:
ドラフトではどういうチームが声をかけてきたんですか。

牛島:
一応12球団が声をかけてくれたんですけど、うちのおじいさんは九州に住んでて、病気と交通事故の影響で耳が聞こえなかったんですよ。ドラフトの前に電話がかかってきて、「和彦、俺は聞こえないからラジオは無理やから」って言うんですよ。ということは、「テレビに映れ」でしょう。つまり「セ・リーグに行け」じゃないですか。

徳光:
なるほど、そういうことですね。

牛島:
だから、僕はかたくなに「すいません、パ・リーグはお断りします」って言ってたら、評判がえらくまた…。

徳光:
そうでした(笑)。

牛島:
「あいつは高校生で生意気なやつや」とか言われて。

徳光:
パ・リーグはおじいさんの事情を知らないですからね。

牛島:
巨人と中日は「間違いなく指名する」って言ってくれてたんです。でも、巨人はずっと左ピッチャーがいなかったんで、ドラフト当日に長嶋さんが「牛島じゃなくて木田(勇)にいこう」ってなったんです。それで、僕は単独で中日になったんです。

徳光:
そうですか、へえ。
当時の中日っていいますと、(鈴木)孝政さんなんかいた頃ですかね。

牛島:
柱になってたのは小松辰雄さんと鈴木孝政さん。僕がキャンプの初日にブルペンに入って、「ここ」って言われたところが、小松さんと鈴木さんの真ん中なんです。これはいじめだなと思いましたよ。ドーンっていう球とビューンっていう球の間で、僕が投げると130km/hくらいの球がシュルシュルっと行くわけですよ。多分、「鼻を一回へし折っとこうか」だったんじゃないですかね。

徳光:
なるほどね。

牛島:
キャッチャーは木俣(達彦)さんが受けてくれたんです。初めてのブルペンで、「ちょっと高かったけど、いいバッティングピッチャーになるかもな」、そう言いながらボールを返してくるんです。

徳光:
えーっ。

牛島:
でも、それで良かったと思います。「これは無理、無理。もっとレベルを上げないと、この世界じゃ通用しない」って思いましたから。

徳光:
牛島さんは、実際にバッティング投手みたいなことはされたんですか。

牛島:
一軍の試合がナゴヤ球場であるときは、僕も一軍のバッティングピッチャーとして行ったんです。

徳光:
そうなんですか。

牛島:
主力選手、木俣さん、高木(守道)さん、谷沢(健一)さんとか外国人選手とかに試合前に投げるんですよ。試合前ですから気持ち良く打ってもらいたい。だから、力を抜いて投げるじゃないですか。そしたら、「変化した」って怒るんですよ。「変化なんかしてないし、自分がミスしたからって『変化した』とか言いやがって」って思って、力を入れて投げると、10球投げて8本ホームランを打つんですよ。
そのときに、「力を入れたらどんな球になるんだろう」とか、「力を抜いてるときは、どんな現象が起きてるんだろう」とかっていうのを、すごく考えました。2000本も打ってるバッターを相手に投げられるわけですから、そこで勉強になりましたね。

徳光:
だからこそ、そこから頭角を現すわけですよね。1年目の8月に一軍デビュー。高卒ルーキーですし、これは早かったですね。

牛島:
そうですね。一軍が弱かったんですよ。「最下位でお客が入らないから、一軍に上がってこい」って言われて。あの当時は予告先発がなかったのに、新聞に「あした先発」って載ってましたから。

徳光:
そっか。お客さんを呼ぶために、牛島さんに投げてもらうしかなかったんだ。

牛島:
なんか知らんけど2試合目で勝ち投手になって、プロで一歩目を踏み出した感じでしたね。

牛島氏のプロ初勝利は1980年8月30日の阪神戦。8回からの2イニングで打者6人をノーヒットに抑える力投だった。

王氏と対戦「テレビに投げている」!?

牛島氏はルーキーイヤーの1980年に2勝をあげる。この年は王貞治氏の現役最終年だった。

徳光:
王さんとは対戦は?

牛島:
2打席あります。あわやホームランっていうのが2本です。外野手がフェンスにくっ付いてジャンプして捕ったっていうのが2本なんですよ。今考えたら、「1本入れといてよ」とか言ってね(笑)。

徳光:
記念に(笑)。

牛島:
そのときに王さんが、「若いんだからもっと真っすぐを投げなきゃ」って試合後のコメントをしたみたいで、新聞記者に聞かれたんですけど、「すいません、僕の真っすぐが王さんに通じるとは思いませんから」って答えましたね。

徳光:
王さんが打席に立ったときは、キャッチャーは木俣さんですか。

牛島:
はい、木俣さんですね。

徳光:
やっぱり「膝を狙え」とか言われたんですか。

牛島:
「膝じゃダメだ」って言うんですね。「足を上げたときの太もも、お尻と膝の間の太ももを狙わないとホームランを打たれるから、そこに投げろ」って言われるんですけど、世界の王さん相手に高卒ルーキーがそんなところに投げられないですよ。

徳光:
そうですよね。

牛島:
絶対無理ですよ。ほんとテレビ画面を目がけてボールを放ってるみたいでしたもん。実際に対戦してるって感覚はないですよ。子どもの頃に見てたテレビに目がけて、王さんに投げてる。

徳光:
(笑)。

「宇野ヘディング事件」あのグローブを磨いた!?

徳光:
星野(仙一)さんの現役時代は、何年ご一緒だったんですか。

牛島:
3年です。
結構かわいがってもらいましたね。1年目にピッチャーのゴルフコンペがあって、「5時に来い」って言われたんですよ。寮からタクシーで、星野さんちに「おはようございます」って行って、ゴルフバッグをベンツに積み込む。他のお客さんもいるから、ゴルフ場に着くまでは僕は後ろの席で座ってるんです。それでゴルフ場に着いたら、「お前、車を駐車場にとめてこい」って。18歳の僕に「ベンツをとめてこい」って言ったんですよ。「いや、これ、無理やし」と思いました。

徳光:
まるで付き人ですね(笑)。

牛島:
もう付き人です。だから、一軍に上がってからも星野さんのグローブ、スパイク、僕が全部磨いてました。「グローブを大切にしろ」って言ってましたけど、いつも「僕が磨いてましたやん」って思うんです。

徳光:
(笑)。

1981年8月26日の巨人対中日戦はプロ野球ファンの記憶に残る一戦となっている。中日先発の星野氏は6回まで巨人打線を2安打無得点に抑える好投。中日が2対0とリードして迎えた7回裏2アウト二塁の場面で、巨人の山本功児氏がポップフライを打ち上げる。ショートの宇野勝氏が捕球体勢に入り、チェンジを確信した星野氏はベンチに向かって歩き始める。しかし、宇野氏がボールを頭に当てる痛恨のエラーで、二塁ランナーがホームに生還。星野氏はグラブを地面に叩きつけて怒りをあらわにした。プロ野球ファンの間で「宇野ヘディング事件」と呼ばれる“珍プレー”だ。

牛島:
僕はあのときブルペンにいたんで、ベンチの様子は知らないんです。

徳光:
あ、ブルペンにいらしたんですね。

牛島:
宇野さんがポンッてヘディングして、ボールがブルペンのほうに転がってきたんですよ。宇野さんは頭を押さえてるし、サードの大島(康徳)さんはボールを追っかけるんですけど、なかなか追いつかない。星野さんはグローブをバーンッてたたきつけて…。
僕らは、その後で試合に出るかも分かんないから、準備なんですよ。

徳光:
そうか。

牛島:
ただ、星野さんが叩きつけたグローブは僕がホテルで磨いときました(笑)。「あ、これか」って思いながら。

徳光:
何も言ってませんでしたかね。

牛島:
あんまり何も言わずに。でも、星野さんがあんな行動をして、宇野さんもやっぱり落ち込んでるじゃないですか。だから星野さんは宇野さんを食事に連れてってると思うんですよね。

徳光:
そういう人なんだ。そういう人だから、つくし甲斐もあったんですかね。“付き人甲斐”。

牛島:
そうですね。どっちかっていうと厳しいし、結構なことを言うし、殴ったりも…。でも必ずフォローしてましたね。あれはすごい。だから「自分が将来、上に立ったら、腹立つことがあってもフォローしよう」みたいに思いましたね。

【後編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/5/13より)

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