プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

高校時代は浪商高校(現・大体大浪商)のエースとして“ドカベン”香川伸行氏とバッテリーを組み、センバツ準優勝、夏ベスト4に輝いた牛島和彦氏。フォークを武器に中日・ロッテで主に抑えとして活躍し、通算53勝126セーブ。最優秀救援投手1回。巧みな投球術で打者を翻弄した頭脳派右腕に徳光和夫が切り込んだ。

野球部を辞めた中学時代

徳光:
生まれは大阪なんですか。

牛島:
厳密に言うと生まれは奈良なんですよ。2歳まで奈良にいて、3歳から大阪です。

徳光:
野球を始めたのは、いつ頃ですか。

牛島:
子供の頃からですね。

徳光:
小学生の頃。

牛島:
いや、もっと小さい頃から。お袋のお姉さんの家が、奈良でグローブを作ってたんですよ。だから、子供の頃からしょっちゅうグローブを持って遊んでました。

徳光:
じゃあ野球の前にまずグローブありきなんだ。

牛島:
そうですね。

徳光:
小学校時代のソフトボール投げで、とてつもない記録を持っていらっしゃると聞きましたが。

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牛島:
そうですね。小学校のときのソフトボール投げで56mくらい。

徳光:
それは全国レベルですね。

小学校5年生男児のソフトボール投げの平均は20.74m(令和6年 スポーツ庁全国体力・運動能力、運動習慣等調査)。牛島氏が投げた56mというのは、その約2.5倍にもなる。

牛島:
細かったんですけど、ボールを投げるだけは得意でした。

徳光:
それで中学に入って野球部に入るわけですか。

牛島:
そうです。ただ、一度辞めてるんですよ。

徳光:
それはまたどうしてなんですか。

牛島:
1年生から試合に出してもらってたんですね。そうすると、先輩から“お小言”がいっぱいあるじゃないですか。

徳光:
なるほど、かわいがりと言いますかね。

牛島:
「やってられるか」って言って、1年間辞めたんです。でも、2年の夏に「もう上級生はいなくなったんで、もう一回戻ってきてくれ」って友達連中が言ってくれた。「ピッチャーがいないので、ピッチャーをやってくれ」っていうことですけどね。

“ドカベン”香川氏との出会い

1976年の中学野球大阪大会に、当時3年生だった牛島氏は四条中学のエースとして出場。1回戦で完封勝利をあげると、2回戦では完全試合を達成する。3回戦で大阪体育大学附属中学と対戦した。大阪体育大学附属中学には、高校時代に黄金バッテリーを組むことになる“ドカベン”こと香川伸行氏がいた。

牛島:
大阪体育大学附属って、要は浪商の付属ですわ。優勝候補で出てきて優勝するんですよ。

徳光:
大本命ということですね。

牛島:
大本命です。香川は2年生からバリバリのスーパースターだったんですよ。その優勝候補の本命に延長13回4対2で負けたんですけど、延長12回まで2対2だったんです。本当は引き分け再試合なんですけど、プロ野球で使う球場を使ってますから、「決着がつくまでやってくれ」っていうことで、1人で13回投げて負けました。

徳光:
それは注目されますね。

牛島:
それで一気に名前が知られましたね。

レジェンドOBの誘いで浪商入学

徳光:
浪商の付属中学と接戦を演じたということは、当然、浪商高校から注目されることになるわけですね。

牛島:
そうですね。だから浪商が一番熱心に誘ってきましたね。でも、僕はどうせしんどいことをするんだったら、やっぱり甲子園に行きたいと思ってました。あの当時の浪商では絶対に甲子園には行けないんで…。

徳光:
確かにそんなに強くなかったんですよね。

牛島:
僕は天理高校(奈良)を受けたんですよ。セレクションを受けて合格して、ほぼ天理に決まってたんです。でも、うちの従兄弟の出身が郡山高校(奈良)なんですよ。

徳光:
これも強いですね。

牛島:
子供の頃から監督を知ってたんですけど、その監督に「奈良に来るな」って言われて。

徳光:
(笑)。

牛島:
「えっ?」って言う感じでしたけど、まあ仕方ないですね。子供の頃からお世話になってて、従兄弟もお世話になってるし…。「さあ、どうしよう」ってなったときに、やっぱり浪商が熱心に誘ってくれてたんですよ。

徳光:
そうなんですか。

牛島:
ある日、「一回飯を食おう、ゆっくり話をしよう」っていうことで、中3のときに大阪市内でご飯を食べに行ったんです。そこに高田(繁)さんが来られてたんですよ。

徳光:
浪商、やりますね。

牛島:
巨人のレギュラーの高田さんですよ。

徳光:
浪商の卒業生の中でも屈指ですよね。

牛島:
「牛島くん、浪商に入ってくれよ」って言われたら、もうすぐに「はいっ」って出ますよね(笑)。バリバリの巨人のレギュラーですし、「わかりました」って…。

徳光:
浪商からしたら作戦大成功だ。
ただ、僕のイメージ的には、高田さんと牛島さんは浪商とは思えないお顔立ちなんです。やっぱりハリさん(張本勲氏)みたいなのが“浪商顔”。山本ハチさん(山本八郎氏)なんか完全に“浪商顔”でいらっしゃる。

牛島:
僕は後輩ですから、あまり言えないですけど(笑)。

徳光:
ご本人は浪商っぽさはあったんですかね。

牛島:
ありましたね。あの学校で生きていくには浪商っぽくならないと。バンカラみたいな格好して。野球界自体がまだパンチパーマの時代でしたし。襟をちょっと高めにして、長めの学ランを着て…。

徳光:
浪商は上下関係はどうだったんですか。

牛島:
厳しかったですよ。こんな言い方したらあれですけど、いろんな勉強をさせてくれました。理不尽にどう耐えるかとか、どうやり過ごしたらええかとか (笑)。

徳光:
世渡りまで勉強させてくれたんですね(笑)。

桁違いのパワー“ドカベン”香川氏

徳光:
高校に入って中学時代にライバルだった香川選手とバッテリーを組むことになるわけですが、香川さんってやっぱり特別だったんですか。

牛島:
彼は桁違いですね。もうすごかったです。学校のグラウンドは左中間95mくらいにフェンスがあったんですよ。その奥に4階建ての校舎があるんです。高校に入ってすぐパーンって打ったら、その校舎の上を越えていくんですよ。それこそアニメみたいですよね。

徳光:
へぇ、そんなにすごかったんですか。

牛島:
すごかったです。

牛島氏の入学までに、浪商は甲子園に春夏合わせて28回出場し夏2回、春2回の優勝を誇ったが、1970年代に入ってからは低迷していた。

牛島:
僕が入ったときには浪商は低迷してたんで、「牛島と香川と山本(昭良)を軸に最後に『浪商』という名前を世に出して、スポーツは終わりにして勉強に切り替える」とか言ってたんです。

徳光:
そういうことか。僕たちの世代は、大阪と言えば浪商の時代でしたからね。それがPL学園とかが出てきて浪商の時代でなくなる。牛島さんはその時期のピッチャー。だから印象が思い出深いんですよね。

牛島:
入学式が終わってすぐ春の大会の1回戦があって、相手は北陽高校(現・関大北陽)だったんですけど、僕が2点に抑えて完投して、香川がホームランを打って、山本もホームラン打って3対2で勝ったんです。それから、この3人が3年になったときに…みたいな感じでしたね。

徳光:
なるほど。

牛島:
でも、1年の秋の大会の大阪府予選ではPLに16対1で負けてます。それくらい力の差がありましたね。

当時のPL学園には、牛島氏の1学年上に西田真二氏(のち広島)、木戸克彦氏(のち阪神)、金石昭人氏(のち広島)、同学年に小早川毅彦氏(のち広島)、山中潔氏(のち広島)など、そうそうたる面々が揃っていた。

徳光:
対PL学園というのは浪商の一員としてかなり意識されたんですか。

牛島:
いつかこのチームに勝たなあかんと。

徳光:
そうでしょうね。

監督に「黙って見とけ」

浪商は秋の大阪府予選でPL学園に敗れたものの、大阪2位で秋季近畿大会に出場。準優勝してセンバツの切符を勝ち取り4年ぶりの甲子園出場をはたす。しかし、センバツ初戦で高松商業に3対0で敗れ、甲子園で校歌を歌うことはできなかった。

徳光:
甲子園というところはどうでしたか。

牛島:
初めての甲子園でナイトゲームだったんですよ。ナイトゲームなんてやったことないし、初めての甲子園やし、ボッて舞い上がりましたね。初球でストレートを投げたらベースの1mくらい手前でワンバウンドしました。気が付いたら1点取られてるみたいな感じでしたね。

この頃、牛島氏はユニホームの内側にタオルを入れて投げていたという。

牛島:
体重が63kgくらいしかなかったんですよ。上背は今と変わんなくて、マウンドに上がったら貧弱なんですよ。(※編集部注:牛島氏の身長は177cm)

徳光:
確かに細かったですよね。

牛島:
だから、お尻をデカく見せるために、タオルをユニホームのお尻のところ左右に入れて。

徳光:
へぇ、細いけどいい尻をしてるなっていうのはウソだったわけですね。

牛島:
あれは違います、違います。タオルを入れてました。スライディングパンツの分厚いやつを履いて、タオルを入れる。そういうふうにやってましたね。

牛島氏が3年生になった翌1979年、浪商は2年連続でセンバツに出場すると24年ぶりに決勝に進出した。

徳光:
この決勝戦のときに、いまだに伝説として残っている“牛島語録”がありますよね。覚えていらっしゃいますか。

牛島:
はい、覚えてます。3回戦で雨が降ってる中で220球くらい投げてたんですよ。もう決勝戦のときはバッテバテだったんですけど、初めて敬遠のサインが出た。1年生からずっと試合に出てて、敬遠のサインとかほとんど出たことがなかったんですよ。そのとき、バッターがツーベースを打ったらサイクルヒットだったんですよ。

牛島氏がこう振り返るのは箕島高校(和歌山)との決勝戦だ。逆転につぐ逆転となったシーソーゲームで7対6と箕島がリードして迎えた8回裏2アウト二塁の場面で箕島の打席に立ったのは4番・北野敏史氏。ここまでヒット、三塁打、ホームランを打っていて、この打席で二塁打を打てばセンバツ史上初のサイクルヒット達成だった。

牛島:
「ここで敬遠はないやろ。逃げるのは嫌や」。
同級生が伝令で来たんですよ。「『敬遠しろ』って言ってる」って言うんで、「『投げてるのは俺や。黙って見とけ』って言ってこい」って言ったんですよ。普通は言葉を変えるじゃないですか。でも、伝令は「『投げてるのは俺や。黙って見とけ』って言ってました」ってそのまんま監督にしゃべったんです。監督がベンチですごい血相で怒ってました。

徳光:
(笑)。

牛島:
それで打たれて。

徳光:
打たれたんですか。

牛島:
打たれてサードでタッチアウトになって、サイクルヒット完成ですよ。

徳光:
二塁打になったわけだ。

牛島:
はい。試合が終わってから「すいませんでした」って監督に謝ったら、監督は「ここまで来たのはお前たちの力なんだから」って言ってくれました。

試合は結局、この二塁打などで追加点を奪った箕島が8対7で勝ち、浪商は準優勝に終わった。牛島氏は決勝まで延長戦を含む5試合すべて完投。香川氏は1回戦と準決勝でホームランを打つなど5試合で9安打を放つ活躍だった。

「天狗で生意気」も夏の甲子園出場

牛島:
センバツで「投げてるのは俺や」って言った後、中1日で北野高校っていう大阪の頭のいい学校と定期戦があったんですよ。

徳光:
ほう。

牛島:
「僕、無理です。4日間で700球投げてますから無理です」って言ったんですけど、「1イニングだけ投げてくれ」と言われて投げたら、腰を痛めたんですよ。それで、そのあと練習に出られなかったんですよ。そしたら、「あいつは天狗になって練習をサボってる」ってみんなに言われたんです。

徳光:
そうなんだ。

牛島:
だいぶ良くなってきて、ちょっと野球ができるようになったときに、浪商が招待されて宮崎に行ったんですよ。「僕、いいです。投げられないし、やっと投げ始めたところやし」って言ったら、「宮崎でテレビ放送があるんだ」ですよ。

徳光:
これは投げなきゃいかんやつだ。

牛島:
それで、ノーヒットノーランしたんです。

徳光:
えーっ、まずいじゃないですか。

牛島:
そうなんですよ。より一層、「牛島は絶対サボってた」ってなるんですよ。でも、そこで投げたもんですから、また腰を痛めて…。

腰に不安を抱える牛島氏だったが、そんな状態の中で夏の大阪大会を迎える。

牛島:
ずっと100%じゃない状態だったんですけど、逆にどこかおかしいから丁寧に放るんですよね。

徳光:
ああ、そうか。

牛島:
それがいい方向にいってて…。

徳光:
それでまたPL学園と当たるわけですよね。

牛島:
そうです。大阪大会の決勝戦でPLと当たったんです。「今の自分の球だったら多分PLを抑えらんない。シングルヒットならOK」と思って投げたら、たしか打たれた10本は全部シングルヒットだったと思うんですよ。10安打打たれて3点でおさまったんです。

浪商はPL学園に9対3で勝利。18年ぶりの夏の甲子園出場を決めた。

徳光:
当時、大阪の王者はPLじゃないですか。このときはどんな気分でしたかね。

牛島:
僕自身が甲子園に出るんだ云々よりも、「3年のときに強いチームにする、これで責任を果たした」みたいな、そっちのほうがずっと強かったです。

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/5/13より)

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