2025年は「戦後80年」を迎える年。UMKテレビ宮崎は「過去を知る・未来に伝える」をテーマに戦争についての企画を放送している。真珠湾攻撃に出撃し、帰らぬ人となった旧高崎町(宮崎県都城市)出身の男性。親族が男性の生まれ故郷を訪ねた。
海軍兵が家族に宛てた手紙

小春日和の青空を朗らかに飛んでいます。太平洋の暴風を制圧せんがために、一意専心猛訓練です
加賀急降下爆撃隊が航空母艦を爆沈するのも近き将来のことでしょう
若人より意気と熱を除去したら屑(くず)でしょう
1941年4月、鹿児島県で訓練に励んでいた男性が家族にあてた手紙。これから始まる戦争を見据え、自身を奮い立たせる言葉が綴られている。

この手紙を書いたのは旧高崎町出身の南崎常夫さん。高崎高等小学校を卒業後、旧海軍に志願入隊した。

1941年12月8日、4年近くに及ぶ太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾攻撃。
三等飛行兵曹だった南崎さんは、ハワイにある敵戦艦に向けて急降下して爆弾を落とす急降下爆撃機の搭乗員として攻撃に飛び立ち、そのまま消息を絶った。
21歳の若さだった。

酒井輝久さん:
スポーツも学業も優秀で、やんちゃでガキ大将のような感じだったので、近所の人も常夫さんのことを、亡くなったあとでも話に来たがっていたという人気のある人だった。

こう話すのは福岡市に住む酒井輝久さん。

酒井さんは、南崎さんの姉にあたる祖母から手紙を受け継いだ。
酒井輝久さん:
祖母が常々、弟さん(南崎常夫さん)のことを私たちに話していて、どうしても一冊の本にまとめたいと言っていたので、その思いが心の中にあった。
祖母の思いを胸に墓前にて

亡き祖母の願いをかなえようと、酒井さんは2025年2月、家族とともに南崎さんの生まれ故郷・都城市高崎町を訪れた。

南崎家の墓石や石碑には、真珠湾攻撃で南崎さんが乗った爆撃機の様子が綴られていた。
海軍一等飛行兵曹 勲七等功五級 南崎常夫
昭和十六年十二月八日未明航空母艦加賀ヨリ発進ハワイ眞珠湾ニテ
アメリカ太平洋艦隊主力戦艦カリフオールニヤ三萬三千三〇〇屯ヲ
急降下爆撃体当リ見事轟沈依ッテ二階級特進ノ栄ヲ戴く
墓参りに先立ち、酒井さんたちは、南崎さんの甥にあたる方に会い、当時の話を聞いていた。その中で、「南崎さんの評価が戦時中と戦後で大きく変わった」という事を聞き、戦争の不条理さを感じたという。

酒井さんの姉 酒井明子さん:
戦時中は「軍神さま・軍神さま」と、有名人としてあがめられてすごい人なんだと思っていたが、戦後は「戦争をはじめた人」と言われていて、戦中と戦後でがらっと変わってしまった。都合のいい話だと思う。あがめておいて、でも「戦争をはじめた人」と言われても好きで始めたわけではないし、なんか不条理さは感じる。
このあと、南崎家の墓前で手を合わせた。

酒井輝久さん:
まず、父が亡くなったことを伝えて、祖母もまた来たかったんだろうなと思って、ようやくみんな来られたんだよと伝えた。
祖母から聞いてきた南崎さんの生きた証に触れた酒井さんたち。
酒井輝久さん:
単純に真珠湾で亡くなったとしか思っていなかったので、やはりそういう人が身内にいて死の覚悟をもって戦争に行っていたということを聞いて、辛い気持ちになった。祖母の気持ちも分かるようになった。

酒井明子さん:
自分たちがただ生まれてきただけではなく、ルーツを知れば生かせる。どう生きていくか、一日一日無駄にしないように、明日をも知れぬという環境の中で、ひりひりした中で生きていた人がいたことを私たちは知ったので、一生懸命、生きなきゃと思った。
酒井さんの長男で小学3年生の雄介さんにとっては、遠い昔の出来事と感じていた戦争を我が事と考える機会になったようだ。

酒井さんの長男 酒井雄介さん:
親族に戦争に行った人がいたことを知れて、戦争に行く人がいたら、日本の人口も減って、日本が潰れてしまうので、そういう人を増やさないようにこれからも努力した方がいいと思った。友達からまず知らせていって、まわりの大人たちでも知らない人がいると思うので、こういう人がいるというのを知ってもらいたい。
亡くなったという事実だけでなく、周りの人たちがどのように思いを馳せていたのかを知ることや、戦争を二度と繰り返さないために自分事としてとらえていくことが大切だ。
取材協力:南九州文化研究会 稲田哲也氏
(テレビ宮崎)