2025年は「戦後80年」を迎える年。UMKテレビ宮崎は「過去を知る・未来に伝える」をテーマに戦争についての企画を放送している。今回は児玉泰一郎アナウンサーが、北朝鮮で生まれ戦後、引き揚げ船で日本へ帰還した祖母・児玉千恵子さんにインタビューした。戦争中は日本人と朝鮮人が共に女学校に通い仲良くしていたが、敗戦の瞬間の朝鮮人の反応が忘れられないという。「戦争はいかん」という千恵子さんの言葉が胸に響く。

北朝鮮で生まれた祖母

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Q.いま何歳?
児玉千恵子さん:
93歳になった。

Q.インタビューのために美容室に行ってきた?
児玉千恵子さん:
4,5日前にはパーマをかけて、きのうはセットに行ってきた。やんかぶってた(=伸び放題だった)から。

1931年生まれ、93歳の祖母・児玉千恵子さん。宮崎県小林市に住んでいるので、児玉アナウンサーは幼い頃から「小林ばあちゃん」と呼んでいた。

Q.ばあちゃんの出身は宮崎県小林市?
児玉千恵子さん:
出身地?北朝鮮だわ。北朝鮮で生まれた。父、母が北朝鮮に行って生活していたから。

私の曽祖父である清水儀一は、小林市から日本の統治下にあった朝鮮半島に渡り、鉄道会社に勤めていたそうだ。

そこで、同じく朝鮮半島に渡っていた曽祖母・絹枝と結婚。

そして祖母・千恵子は9人兄弟の三女として、朝鮮半島の北部、現在の北朝鮮で生まれた。

日本の敗戦に「手を叩いて…」

祖母が10歳となった1941年。太平洋戦争が勃発。その後、戦争は激しさを増したが、中学生になった祖母は、日本人と朝鮮人が通う女学校に通っていた。

Q.当時の朝鮮の人と日本人の関係性は?
児玉千恵子さん:
全然、差別はない。普通の友達で、仲良くしてもらったのよ。

Q.例えばパクさんとかキムさんとかそういう人たちと?
児玉千恵子さん:
日本人の名前、みんな日本語の名前。大原さんとか小原さんとか金田さんとかって呼びよった。

朝鮮人の友達とも楽しく過ごしていた女学校での日々。しかし、学校で先生から日本の敗戦を告げられたあの日、同じクラスの一部の朝鮮人の反応が、今でも祖母の脳裏には焼き付いている。

児玉千恵子さん:
学校の先生が「日本は負けました」って。「なんで」ってみんなぽけーとしてね。そしたら向こうの朝鮮人はね、手を叩いたの。この人たちはやっぱ戦争が好かんかったんかなと思ってね、自分たちが今度は自由になると思ったのかなと思って。

曽祖母が当時を振り返った手記にはこんな言葉が残っている。

『機関庫に朝鮮人が押しかけてくるから一同銃剣を持って守るよう指令』

このまま朝鮮では暮らせない…曽祖母は仕事のある曽祖父を残し、子供8人を引き連れ、日本へと引き揚げることを決断した。

戦争の話を自分からしなかった理由

終戦から1カ月も経たないうちに、祖母は家族で韓国・釜山から引き揚げ船に乗り、日本を目指した。この時、船内に立ち込めていた臭いをいまも覚えているそうだ。

児玉千恵子さん:
もう本当臭くてね。早く降りたかった。おしっこしたり、うんちをする人もいるから、船の中はめちゃくちゃ。子供たちは甲板の方に乗せられたけど、今度は夜中に雨が降り出してね、もう下に下がってきてみんなぎゅうぎゅう詰め。

日本に戻った祖母は、家族で曽祖父の出身地である小林市へ。その後、曽祖父も日本へ戻り、一家11人での生活が始まった。

しかし、仕事はなく貧しい日々…そのような中、曽祖母は子供たちを養うため、ある仕事を始めた。

児玉千恵子さん:
アイスキャンデーは現金商売ができるでしょ。だからね、アイスキャンデー屋さんにね。

朝鮮に住んでいた頃は、お手伝いさんのいる家で専業主婦だった曽祖母。日本ではリアカーにアイスキャンデーを積み、売り歩いたそうだ。

児玉千恵子さん:
曽祖母は何もしたことないお嬢様だったのにね、今度は真夏はチリンチリン鳴らしてアイスキャンデー売って歩いて日銭を稼ぎよって、ほいで生活しよったの。大変じゃったの。だから。

今回の取材で初めて知った祖母の過去。最後に、孫の私に自分から戦争の話をしてこなかった理由を聞いた。

児玉千恵子さん:
戦争好かんかったからね。思い出さんように。だから子供たちにあんまり話したことないよ。したらいかん、戦争はいかんわね。

「戦争はいかん」という言葉が心にしみる。祖母に聞いたことを子供世代にも伝えていきたい。

(テレビ宮崎)

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